文化・芸術

2009年10月21日 (水)

「大川わたり」を観劇して感激!

読書の秋。芝居好きの私にとって、最近一番のお気に入りの本は山本一力さんの時代小説。
「大川わたり」「あかね空」「損料屋喜八郎始末控え」など江戸庶民の生き様をリアルに描いた山本さんの作品は、読む人をまるで三百年前の市井の世界に引きずり込んでしまう。

居ながらにして、芝居小屋の中で役者さんの台詞を耳にしているような錯覚に陥ります。それほど山本さんの文章力はすごいの一語にすぎる・・・。

いつの時代にあっても変わらぬ人と人との情愛、執念、葛藤、怨念、恫喝、喜び、悲しみなどいわゆる意地と人情の心理描写そして情緒たっぷりの江戸の下町を舞台とした情景描写・・・。読んでいるうちに、まるで自分も小説の中の一人物として登場いるような気にさせてしまいます。

■待望の劇場公演を観劇しました。

場所は名古屋の中日劇場。主人公の銀次には、座長として張り切る錦織一清さん、脇を固めるのは左とんぺいさん、林与一さん、池上季実子さんなど芸達者な役者さんが顔を揃え山本小説の世界を舞台で繰りひろげていく。

■大川わたりのあらすじ

腕のある銀次は大工だったが、ふとあることで博打場に出入りするようになる。気がつけば半年で約二十両の借金を作っていた。有り金をはたいても足りず、仲間を賭場に引きずり込む役を負うことになる。

ある時銀次によって引き込まれた鏝(こて)屋の一家が夜逃げをしたことで銀次は目を覚ます。厚生を誓った銀次は、賭場の猪之助親分に返済の猶予を願う。

日頃から銀次に目をかけていた猪之助は、命をとる代わりに条件をだした。それは大川を渡らず、大川の西側だけで暮らすことだった。

「おめえが大川のこっちに来てもいいのは、銭をけえしに来るときだ」「そうじゃなしに一歩でも渡ったら、その場で始末する」

以下ご興味のある方は祥伝社さん発行の文庫本でご覧ください。

■カーテンコール

ドラマチックな展開で大川渡りの舞台は終演しました。カーテンコールもこの題名にこだわったもの。主役の錦織さんが最後に大川にかかる永代橋の向こうから登場すると、どっと歓声があがる・・・。

■エピローグ・・・その壱

この劇場公演を見終わっての感想は、ひとお先に「目のお正月をさせて頂いた」・・・そんな嬉しい気分。

偶然というか、巡り合わせか帰りの地下鉄で目に飛び込んだのが中吊り広告の「山本一力・新作『牡丹酒』」という文字、もちろん駅を降りると一目散で近くの書店に駆け込みました。おかげさまで一日で二回も得をしたようなとても嬉しい日となりました。

■エピローグ・・・その弐

「牡丹酒」は、晩酌好きな私にとっては、なにやらとても気になる題名。

人と人とのつながりが、静かに爽やかに広がっていく・・・読みながら熟成された「飲みたい・・・」という気持ち、なんとかしてやらねば!(春風亭昇太さん)

前評判を聞くだけでワクワクいたします。

写真は、劇場で頂いた案内チラシと文庫本のブックカバーです。


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2009年7月 2日 (木)

サイモンとガーファンクル             アリーナ席のプラチナチケットを手にして・・・

ついにとうとう、幻のプラチナチケットを手にすることができました。彼らの音楽を聴き始めて40年余・・・この感慨はひとしおです。

あと数日でナゴヤドームのライブが始まり、自分がそのアリーナ席にいると思うと今から胸の高まりをおさえることができません。

サイモンとガーファンクル、彼らの音楽そして生き様そのものが「自分の青春=人生」と思っている小生にとって、これは今後おそらく二度とない体験となることとと思います。


■サイモンとガーファンクルとは・・・

ここであらためて「サイモンとガーファンクル」について振り返ってみたいと思います。

小さい頃から友人であったポール・サイモンとアート・ガーファンクルがレコードデビューしたのは1964年のこと。

それから1970年までの短い活動期間のなかで発表された5枚のオリジナルアルバム。それと忘れることのできない映画サウンドトラック盤『卒業』を残して活動を休止。その短い音楽活動期間を通して世界の音楽ファンに与えたインパクトの強さは計り知れないものがありました。

映画『卒業』のヒットにより「サウンド・オブ・サイレンス」「ミセス・ロビンソン」などが大ヒット。その他にも「スカボロー・フェア」「早く家に帰りたい」などどたくさんのヒット曲が生まれました。そして1970年「明日に架ける橋」「ボクサー」「コンドルは飛んで行く」「いとしのセシリア」という名曲を収録した『明日に架ける橋』を発表後に解散。それぞれがソロとして活動することとなる。

その後1981年9月19日、ニューヨークで、たった一度の再結成コンサートが行われなした。
これは公演緑化運動に対する無料チャリティーコンサートとはいえ、およそ53万人が集まったという正に歴史的なコンサートでした。それから約30年、ゆっくりといや、あっという間に時が過ぎました。

■エピローグ

これほど人生の師匠と仰ぐほどの「サイモンとガーファンクル」。あと数日で同じ時間を共有し、ドームの中で同じ空気を吸い時間をともに共有することができる・・・ひょっとして自分の人生のなかでも忘れられない特別な一日になるかも知れません。

写真は約40年ほど前に買ったレコードのジャケット、そしてプラチナチケットです。

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2009年4月 6日 (月)

住吉大社で体験 古式ゆかしい神前結婚式

春うららの先日、縁あって大阪・住吉大社でとりおこなわれた甥っ子の結婚式に参列いたしました。その感動を覚めやらぬうちにと思い、早速ブログに綴らさせていただきました。

■ホテルの「チャペル結婚式」が全盛の昨今について思うこと

まるで日本がいつの時代からキリスト教に改宗したのかと錯覚してしまうほど、チャペルでの結婚式が全盛の昨今。

キリスト教徒でもないのになぜ「チャペル」なのか?またなぜ「宣教師の前で永久の誓い」を行うのか?

それは結婚式自体がイベント・ショウ化し当事者同士が、多分にホテルやウエディング施設の商業主義のせられてしまっているのではないか・・・と感じさせられます。

「バージンロード」、「賛美歌」、「署名」、「キャンドルサービス」・・・など。まるでテレビで見る芸能人の華やかな結婚式のように・・・。

■日本人なら純和風の神前結婚を

そんな意味で、今回の甥っ子の結婚式を通し、改めて「日本人の心と美意識」に感動させられました。よくぞ「住吉さん」で神前結婚式を挙げてくれたと、甥っ子には拍手と喝采そして感謝する次第です。

神主さんと神楽女に導かれ、玉砂利を踏みしめながらの本殿参拝は、参列者としても身が引き締まる・・・まさに有り難い体験。(古文の解釈でいうと「あることが難しい」)

「羽織袴に白無垢の花嫁衣装」そして赤い大きな和傘。住吉さんの緑に包まれたお社に美しい日本美が映える。当のご両人にとっては感極まるものがあったことでしょう。

そして、修祓から始まるおごそかな「神前結婚式」。忘れていた何かを思い出しました。そうだ「これだ日本だ 私たちの国だ」と。

■日本の世直しを

唄の文句にもあるように『ご飯のことを「ライス」』、『味噌汁よりポタージュ』なんて日本人には似合わない。また『好いた惚れたとは、もとはといえば心がきめる問題』とか・・・。かっての日本には控えめな心と美意識があった。

それが今ではどうだ、新聞を賑わす事件には事欠かない。いったい日本はいつの時代から心がない、荒んだ世相になってしまったのか・・・。日本の良さを忘れ、「薄っぺらな西洋かぶれ」がその大きな原因の一つではないか。ついついボヤキたくなってしまいます。

■エピローグ

いやはや、この歳になると、やたらと「日本」、「和の世界」がしっくりときます。WBCでのサムライJAPAN・日本チームの活躍と優勝。そして甥っ子の神前結婚式を通して、ますます日本人を意識させられました。

感動をありがとう!!

拙文を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。

写真は住吉大社での花嫁行列と神前結婚式の模様です。


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2008年12月 7日 (日)

「普天間かおり」さんのコンサートツアー2008 速報!

今夜「普天間かおり」さんの「コンサートツアー2008」に行ってまいりました。場所は名古屋の「A Banuet of goddesses(アバンケット・オブ・ゴッデシーズ)」。

■ライブハウス『A Banquet of Goddesses~女神達の饗宴』について

初めて「A Banuet of goddesses」さんを訪れたのは、今年の4月。お店の名前に正直言って「え!それなに!」と驚きました。直訳すると「女神達の饗宴」。格調高いお店の名前のわりには、ず〜と気さくで安らぎを感じるのは、オーナーのMIYUKIさんとTOMさんそしてOHTAさんの存在。以来、たまに訪れるたびにいろいろと私のわがままを許してくださり、出張の帰りなどの、貴重な止まり木のひとつとなりました。

■ライブの始まるまでは・・・

ラジオ番組で普天間かおりさんの歌を聞いたことがあるものの、ライブで生の歌声を聞き、当然のことながらご尊顔に接するのは初めての体験。演奏が始まるまで、どんな感動があるのか、「パンチde デート(これでわかる人はかなりな強者)」状態。
ワクワク、ドキドキ、オーディアンスである私の方が緊張いたしました。

その緊張をときほぐすため、いつもよりピッチをあげアルコールを喉におしこみました。ビールとお酒、その香りに酔うにつれ、心のリラックスも用意万端。ライブの始まりを胸の高まりとともに待ちました。

■普天間かおりさんとは・・・

沖縄県中城村出身。琉球王朝の流れに生まれる高貴なDNAを体に宿し、3才の時から歌をうたいはじめる。4才の時「のど自慢大会」に初登場し、初優勝する。以後、各大会等で入賞。
1991年より「本間かおり」の名前でアニメ「鎧伝サムライトルーパー」などのアニメソングを中心に歌手活動を展開。東海ラジオ(名古屋)の番組でパーソナリティもつとめる。

1997年7月、自から作詞を担当したアルバム「真南風(マフェー)」をリリース。沖縄の旋律にのせた素直でのびのある歌声が好評。また昨年発表した「守りたいもの」が多くの感動をよび、新たなファン層も広げた ・・・ と紹介されている。

■コンサートツアー2008が始まる!

ライブハウスのブルーの壁をバックに純白のドレスが映える。普天間かおりさんのライブがスタート。

曲はCDで聞いていたとおり、癒し系の音楽。キーボードとギターだけのシンプルなサウンドが、ほろ酔い加減の体と心にしみ渡り、雄大にして繊細、「ほんわか、のほほん、しんみり」お茶のコマーシャルではありませんが、日頃つかれた心と肩こりを解きほぐしてくれるには十分すぎるほどのミュージックシャワー。何ともいえない充実感と心地よさに酔いしれました。

ライブの途中には、「レキオス」、「シンセアリー」などCD未発表の曲も数曲ありましたが、当然のことながら「守りたいもの」がライブのラストソング。人それぞれ「守りたいもの」は違うでしょう・・・。家族、友人、恋人、仕事、自分のプライド・・・、それぞれの思いに語りかけるとってもいい曲ですね。

普天間かおりさんには、この曲を大事に歌い続けていっていただきたいと思います。

時間というものは、残酷なもの。普天間かおりさんの歌を子守歌にして、このまま、「アバンケさん」の揺りかごのなかで眠りに入りたい・・・という心地よさのなかでライブの終演となりました。

■エピローグ・・・1

今年も残すところあとわずか。仕事の方も加速度的に多忙となり、また渡世人の身の上、義理と人情の世界も欠かせません。あの人と、この人と熱燗で一杯、年の瀬も体と心をフルチューンし、エンジン全開で年末まで突っ走ります。

拙文を最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。

ブログ左上の「お気に召すまま」に「普天間かおり」さんの「守りたいもの」にリンクをはらさせていただきました。よろしかったらクリックして、ご覧になってください。

■エピローグ・・・2

名古屋へ出張や旅行でお越しの節は、ぜひ「アバンケ」さんにお立ち寄りください。優しいMIYUKIさんとOHTAさんが、疲れたこころを癒してくれますよ。
TEL : 052-471-5510

写真は、「コンサートツアー2008」案内のパンフレットです。


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2008年11月 3日 (月)

速報! 島津亜矢さんのリサイタル「無双」

〜貫き通す一筋の道〜 と題した島津亜矢さんのリサイタルに行って参りました。

場所はセンチュリーホール。名古屋では5月の御園座公演以来、待ちに待った約半年ぶりのコンサート。

BSデジタル放送で彼女の歌う姿をくっきりはっきりと見ることができるものの、やはり生(ライブ)は違う。この時、この一瞬を島津亜矢さん、そして会場の皆さまと空気を共有していると思うと、言葉には表せない感動が伝わってきます。

■今回のテーマは無双・・・

この「無双」という言葉ですぐイメージしたのは、歌謡浪曲シリーズの中のひとつ「俵星玄蕃」。

槍は錆びても この名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気
赤穂浪士の かげとなり
尽くす誠は 槍一筋に
香る誉れの 元禄桜 ・・・

(中略)

吉良の屋敷に 来て見れば 
今、討ち入りは 真最中
総大将の 内蔵之助 
見つけて駆け寄る 俵星が
天下無双の この槍で 
お助太刀をば 致そうぞ ・・・

のくだりを思い出しました。いやいや、島津亜矢さんは、いまや演歌の実力派歌手として押しも押されぬ存在・・・。
また、三波春夫さんの独壇場であった「長編歌謡浪曲」にもあの若さで挑戦している。

・・・天下無双の歌声で更なる階段を登りつめていくのか・・・など勝手な想像をしながら、興奮気味な面持ちでリサイタルの幕が上がるのを待ちました。

■島津亜矢さんのプロフィール

島津亜矢さんの熱烈なファンの方には恐縮ですが、彼女のプロフィールについてちょっとだけご紹介させていただきます。生まれは九州は熊本県鹿本郡植木町。子供の頃から「演歌の申し子」といわれ数々のグランプリを手にし、まさにその頃から「天才少女」の名を欲しいままにしていた。

・・・かの藤山一郎さんをして「日本の演歌の財産」と言わしめたとか・・・。天性ともいえる艶と張りのある声、そして抜群の歌唱力は年とともにさらにパワーアップ。また円熟味も一段と増した「歌手・島津亜矢」さんの今後に期待は高まるばかりです。

そんな彼女ですが、心根は優しくいつも謙虚。いまに満足せずこれからも努力精進し「大器晩成」すると・・・。それがたまらない魅力のひとつです。目指せ「国民栄誉賞」!

■リサイタルの幕が上がる・・・第一部

漆黒のステージ、トップから照らすブルーのスポットライトに亜矢ちゃんの姿が浮かび上がる。ウオーという歓声とともに万雷の拍手と手拍子。「無双」のステージ第一部の始まりでした。

最初は新曲の「海ぶし」、次にはお馴染み「演歌桜」。続いて昭和の名曲シリーズに移り、その一曲に故フランク永井さんの名曲「君恋し」。偶然と言えば偶然、私には一世を風靡したフランク永井さんへの追悼曲に映りました。

そして軍歌も登場「戦友」・・・「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の・・・」この歌を聞きながらついつい亡くなった親父の元気な姿を思い出し、ここで早くも涙腺が緩み、一筋のなみだが流れました。
危ないと思っていたら、今度は一転してPOPS。これで救われました。

■再び幕が上がる・・・第二部

第二部のスタートは、きりりとした袴姿で登場。豪商一代「紀伊国屋文左衛門」、この手の歌謡長編浪曲は、亜矢ちゃんの大きな魅力のひとつ。往年の三波春夫さんとは、ひと味違う「亜矢ぶし」で会場を唸らせます。

そして、「母シリーズ」・・・「母ごころ宅急便」、「帰らんちゃよか」、「母への感謝状」。次にでてくる歌詞が分かっていても瞼の涙腺は、ウルウルの用意万端。「母へ、子供達への気持ち」が頭のなかを駆けめぐり思いっきり泣かされました。

今回のフィナーレは名作歌謡劇場「おつう」。鶴の恩返しをテーマにした約20分の熱演と熱唱。最後は、雪のなかを空に舞い上がっていく幻想的な情景。「さようなら〜」「さようなら〜」。おつうの叫びで幕が降りました。

■熱烈なファンは、島津亜矢さんを「亜矢姫」と呼ぶ・・・

「亜矢ちゃん!」「島津!」とあちこちから大きなかけ声。会場いっぱいに溢れる熱気と興奮。いやはや、まさに天下無双の「亜矢ワールド」。贔屓目にみても日本の演歌を歌わせたら右に出る歌手はいない、と云いたくなります。それほど聴く人を魅了させる超満足の2時間半。熱烈なファンの方は彼女を「亜矢姫」と呼んでいるようです。それも宜なるかな・・・と納得。

■亜矢姫とついに握手!

リサイタルの記念に買ったDVDで「握手券」を入手。コンサート終了とともに長蛇の列の最後尾に並びました。待つこと約10分。ついに念願の亜矢姫との握手が実現。柔らかで小さな手のひら。ぬくもりが十分に心のなかに伝わってきました。

■エピローグ

感動と興奮に酔いしれながら、帰りのクルマの中ではもちろん亜矢姫のCD。年末の紅白歌合戦、はたまた来年の御園座公演が今から楽しみです。

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

ブログの左上の「お気に召すまま・・・」に亜矢ちゃんが歌う「海ぶし」のサイトにリンクをはらさせていただいております。
よろしかったらクリックしてみてください。

P.S.写真は、上から前売りチケット購入の際に頂いたパンフ、直筆のお礼状、そして握手券です。


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2008年10月 1日 (水)

中日劇場 九月講演「佐賀のがばいばあちゃん」を観劇して

月もかわり十月となりました。ともあれ、月一作が私のブログ制作の目途。先月は月末ぎりぎりセーフの状態でしたので、今月は気合いをいれ、月初からのスタートダッシュとまいりました。

■テーマは「佐賀のがばいばあちゃん」

先日名古屋・栄の中日劇場の九月公演「がばいばあちゃん」を観劇させていただく機会がありました。中日劇場での観劇というとちょうど3年前、西川流の「名古屋をどり」以来。日頃は100人も入れば満員御礼となる大衆演劇の芝居小屋をもっぱら見慣れているせいか、こういう大舞台は少々、いやかなり勝手が違う・・・。

大衆演劇の楽しみは、観劇中にお寿司やおでんを食べたり、缶ビールはたまたお酒を飲みながら贔屓の役者さんの出番を待つ。待ってました !「座長 !」「お諒さん !」とかけ声をおくるなど、あくまで観客主体で事が運んでいく・・・。大劇場では、そんな訳にはいかない。いただいたパンフレットに目をやりながら開演の時を静かに待ちました。

■定刻通りに緞帳は上がりました

大きな緞帳と広い舞台、そして肘掛け付きの豪華な座席。何よりも違うのが1000名を超えるお客さまの数。袋からあられなどを取り出そうものなら、退場を命じられそうな厳かな雰囲気。定刻を知らせるチャイムの音とともに緞帳がするすると上がりました。そしてスポットライトの中心に島田洋八さんの姿が・・・そこからお芝居が始まりました。(洋八さんは劇中語り部として出演)

■あらすじ

戦後の動乱期、広島に暮らす昭広(島田洋七の本名)少年は母親に女手ひとつで育てられている。夜ごと幼い昭広は、一人淋しさに我慢できず、夜の居酒屋で働く母のもとにやってくるため、母は商売にならない。いろいろ考えたうえ、母は泣く泣く佐賀に住む祖母のおサノばあちゃんの家へ昭広を送ることから物語が始まる。

おサノばあちゃんの家は、佐賀の田舎にあって、超苦労人そして貧乏人だった。だが「貧乏を貧乏と考えず」、明るく逞しく生きる「がばいばあちゃん」であった。そして時として、奇想天外な考え方、破天荒な発言で町育ちの昭広を驚かせる。最初は母がとても恋しく、田舎暮らしに抵抗を感じた昭広だったが、次第に佐賀にも、学校の友達にも、そしてばあちゃんとの「由緒正しい貧乏」暮らしにも馴染んでいった。
そして周囲の優しい人々に見守られ、すくすくと成長する昭広少年の、がばいばあちゃんと過ごした8年間を人情味溢れるストーリーで描いていく。

■がばいばあちゃんの語録

・「拾うものはあっても、捨てるものはなかと」
・「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏」
 「うちは明るい貧乏だからよか。それも最近貧乏になったと違うから、心配せんでもよか。うちは先祖代々貧乏だから」
・「人間全て総合力。通知表も3科目足して5あればそれで十分」などなど・・・。

因みに「がばい」とは佐賀弁で「とっても」の意味。だから「がばいばあちゃん」はとても凄いおばあちゃんという意味です。子供の目から通して見る「おサノばあちゃん」は眩しいくらいの尊敬に値する存在だったとうかがえます。

■がばいばあちゃんが教えてくれた教訓

☆今の世相と教育について

子供をほったらかしにしていながら、勉強しなさいと小言ばかりを云う親。ゲームやモノやお小遣いを与えてそれが愛情と勘違いしている親。何かあれば学校が悪い、世間が悪いと、今時の親は主張する。昔はそんなじゃなかった。躾とか人間の人格を形成するのはやっぱり家庭。それも愛情溢れるスキンシップが大切だよ・・・そうがばいばあちゃんは教えてくれている気がします。

☆貧乏なんて怖くない

実入りに応じた生活をしていれば幸せ、「貧乏なんて怖くない」。日本はいつの日から心の歯車が狂ってしまったのだろうか。昭和30〜40年代までの寒かった冬を思い起こすと、そこには「こたつ」「ねんねこ」「炭火あんか」「湯たんぽ」などがありました。でも、本当の温かさは人の心の温もり。それも一家が身を寄せ合う家庭の温かさが一番ではなかっただろうか。当時の庶民の暮らしは、皆んな貧乏だったが、それでも「いつかは何とかなる」と夢と希望は持っていた。

クルマあり、パソコンあり、携帯電話ありの現代の方が一見幸せそうに思えるが実はそうではない。この世を生きていくのにさして必要不可欠でもないモノを追い求め、そして貧乏を怖れるから様々な犯罪が起き、世の中全体が心の余裕のないぎすぎすした世相を呈している・・・。そんな気がしてなりません。

■エピローグ

「がばいばあちゃん」は今の世の中に再び「貧乏のススメ」をしているのではないだろうか。そして本当の幸せは「モノではなく心の豊かさ」であることをこのお芝居を通して強烈なメッセージを送っている・・・今回の観劇を通し、様々な教訓を教えられました。

がばいばあちゃん・・・大切なことを思い起こしてくれてありがとう。

拙文を最後までごご覧いただき、大変恐縮いたしております。拙文のついてに拙歌を一つ。

貧乏を 怖れぬ我が身は 親譲り 金運無縁の 人生航路

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2008年8月14日 (木)

「曽根崎心中」の舞台を観て近松門左衛門について考えること

盆休みの初め、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目としてよく知られる「曽根崎心中」の舞台を観る機会がありました。

迫真の演技に促されるようにして、今回は近松門左衛門の「世話物」についてブログの筆をとらさせていただくことにしました。

■近松門左衛門は今でいう「シナリオライター」の天才

驚くべきことに、この戯曲を近松が書いたのが、心中事件が起こってたった2〜3週間ほどのこと。事件発生からわずか1カ月で初日を迎えたという。

人形浄瑠璃「曽根崎心中」の初演は、元禄16年(1703年)5月7日の道頓堀にある竹本座での公演。世間の話題に上った事件をテーマにいち早く戯曲化し、世間をあっと云わせ圧倒的な人気を呼んだという。

この演目を皮切りとして、「世話物・心中物」のブームが起り、近松の代表作の一つである『心中天網島』も1720年に発表されている。しかし、物語に共感した人々の間で、心中ブームが起こってしまい、江戸幕府は、1723年に上演を禁止すると共に、心中した者の葬儀を禁止するなどの措置をとることとなってしまった。その後心中物の「曽根崎心中」などは、昭和に至るまで戯曲として、演じられることはなかったという。

また、近松自身、生涯に100作以上の戯曲を書いたが、そのうち約20作が世話物、残りが時代物であったという。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品ですが、やはり当時人気があったのは「国性爺合戦」などの時代物が中心であったようです。

別の角度からみると、近松はここに同時代の心中事件という俗世の実話を「世話物」として瞬時に戯曲化し、これまでの「時代物」に対して、「世話物」という新たなジャンルを切り開いた開拓者。しかも天才的な才能で人々の胸をうつ戯曲を書きまくる・・・今でいう超売れっ子で「天才肌のシナリオライター」ではなかったかと推察されます。

■「曽根崎心中」のあらすじは・・・

「曽根崎心中」は、大阪堂島新地・天満屋の遊女「お初(21歳)」と内本町醤油商・平野屋の手代である「徳兵衛(25歳)」が梅田・曽根崎の露天神の森で心中した事件に基づいている。

醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初は恋し合う仲であり、物語は、徳兵衛とお初が久しぶりに再会したシーンから始まる。便りのないことを責めるお初に、徳兵衛は会えない間の自分の置かれた立場を説明する。

徳兵衛は、叔父の家で丁稚奉公し、誠実に働くことが認められ手代となった。程なくして叔父の姪と結婚させて、店を持たせようという縁談話が持ち上がってきた。徳兵衛は、自分には、お初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに、徳兵衛の継母相手に結納まで済ませてしまう。

固辞する徳兵衛に、叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡す。「商売などさせない」「大阪から出て行け」「付け払いの代金を七日以内に返せ」というものであった。困り果てた徳兵衛は、やっとの思いで、継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという友人・九平次に三日の約束でその金を貸してしまう。

その九平次にも「借金など知らぬ」と裏切られ、逆に徳兵衛を詐欺師呼ばわりしたうえ、散々な目にあわせてしまう。叔父からの勘当のうえ、信じていた男の裏切りにあい、死んで身の証を立てるより他に、身の潔白を証明し、自分を守る手だてが、徳兵衛にはなかった。

徳兵衛は覚悟を決め、密かにお初のもとを訪れ、お初に死ぬ覚悟を伝える。真夜中、お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の森へ心中の道行となる。互いを松の木に縛り覚悟を確かめ合うと、徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、そして自らも命を絶つ。

■美文で綴られる近松の戯曲

お初と徳兵衛がいよいよ心中の道行にいたる「曾根崎心中」の終盤の道行文には、こうあります。

この世の名残り 夜も名残り
死ににゆく身を たとふれば
あだしが原の 道の霜
一足ずつに 消えてゆく
夢の夢こそ あはれなれ

近松の名文は「もののあはれには、一切の道理も何もいらない」という日本人の美意識を見事にとらえている。そしてその美文が義太夫節として語られ、太棹が鳴り「人形浄瑠璃」として昇華していく・・・。
竹本座での盛況も近松の胸の中では、すべて織り込み済みではなかったかと推察されます。

■エピローグ

「曽根崎心中」といい「冥途の飛脚」や「心中天網島」など…近松は、不幸な星のもとに生まれながら、精一杯生きようとする女性たちを、優しくいたわりの目で描いています。

多くの女性たち・・・「曽根崎心中のお初」や「冥途の飛脚の梅川」、「心中天網島の小春」のような遊女・・・彼女たちは、薄幸な境遇や偽りの世の中で掴んだ誠の愛を、命に代えても守り抜こうとする。初めて自分を人として愛し、女として愛してくれた男と、喜んで一緒に死のうとする。まるで生まれた時から自分に与えられた運命のように・・・。

それが、自分の愛の証であり、誇りですらあると女は考える。そうなると、純情でか弱い彼女たちは、一人の人間として精神的に一層強くなり、最後にはむしろ男をリードしながら、しっかりとした足取りで死への道行きへと歩んで行く。

いつの世でも女性は強いですね・・・これで今回のブログの結びの言葉とさせていただきます。

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

写真は藤千代之助劇団「曽根崎心中」の舞台です。

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2008年5月 9日 (金)

佐藤しのぶさん IN 豊田市コンサートホール!

今年も母の日が近づいてまいりました。この時期になると、母の日に因んで、子供への愛しさ、そして親子の絆を歌う恒例の「佐藤しのぶ」さんのコンサートが各地で催されます。題して「わが母の教え給いし歌」。その天使の歌声の誘いで「豊田市コンサートホール 」にでかけてまいりました。

■佐藤しのぶさんとは・・・

大ファンの方には、いささか失礼かと存じますが、「佐藤しのぶ」さんについて少しだけご紹介させていただきます。

佐藤しのぶさんは、東京都生まれ。小学生、中学生の時期を大阪府高槻市で過ごし、国立音楽大学で声楽を学び、そして「椿姫」に抜擢され、鮮烈なデビュー。その存在感のある華やかな舞台姿は、マスコミでも大きく取り上げられ、一気にスターダムに上りました。

その後、文化庁派遣による芸術家在外研修員として、ミラノへ留学。帰国後のデビュー・リサイタルではイタリアオペラを歌い、衛星放送を通して世界へ披露されました。「トスカ」のタイトルロールで、ヨーロッパデビューを飾った後は、ウィーン国立歌劇場やケルン市立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラなど世界の主要な歌劇場でも主役を歌い、1987年から1990年にかけてNHK紅白歌合戦にも出演した。

受賞した賞というと、主なもので1998年11月には「蝶々夫人」で文化放送音楽賞、都民栄誉章、ジロー・オペラ賞大賞、マドモアゼル・パルファム賞、日本文化デザイン賞大賞など、その活躍ぶりは枚挙にいとまがありません。

■「命の大切さを音楽を通じて伝えたい」・・・

佐藤しのぶさんが、母の日に因んだコンサートを始めたのは約14年前からと云う。しのぶさん自身が、出産してわが娘を抱いたとき、自分を生みそして育てて下さった母のへの感謝に気づき、このコンサートを始めたと云う。以来、毎年5月の「母の日」の前後に全国各地で開催されていると云う。

題する「わが母の教え給いし歌」は、もともとドボルザークの同名の小品の歌曲。佐藤しのぶさんの言葉・・・「母が私にこの歌を教えたとき、母の目には涙があった。いま自分がその歳(とし)になり、娘に教えるときにやはり涙する」という意味の数行の詩には、自分の生き方を振り返り、娘の将来に思いをはせる母親の愛情が溢れている。

■心暖まるもうひとつの活動・・・

一方、佐藤しのぶさんは、途上国などで、子供達を対象にしたコンサートの上演にも精力的であるという。平和な日本のこの時代に生きてこられたことに心から感謝して、コンサート会場で販売されるCDや図書の収益金は、現在も困難な状況下にある東南アジアやチェルノブイリなどに寄付されるという。一人の人間としても立派な人格者でもあると云えます。

■コンサートホールでは・・・

佐藤しのぶさんの愛情溢れる歌声がコンサートホールに流はじめると、客席では多くの人が身を乗り出し、静かに彼女の音楽の世界に浸っていく。特に女性ファンの方にとっては、母親としての誇りと自信、そして責任感、また新たな幸せを感じられる・・・心温まるコンサートだったと思います。

■エピローグ

「豊田市コンサートホール」は、実に素晴らしいの一言。座席数こそ1,004席と中規模なものですが、木と石で創られた柔らかく暖かい自然空間、そして音響の良さを追求したシューボックス型のこのホールは、クラシックを中心とした音楽専用のものとか。また、正面のパイプオルガンは北ドイツのバロック様式を基に製作されたもので、ホールのシンボルとしてその荘厳な存在感を示していました。

まさに「佐藤しのぶ」さんの歌声をオーディアンスにフルに伝えることのできる、さすが世界のトヨタの牙城に位置するには相応しい、とっても上質なコンサートホールでした。

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

ブログのトップ左上(お気に召すまま・・・)に、「佐藤しのぶ」さんが歌う「早春賦」にリンクをはらさせていただきました。よろしかったらクリックしてみて下さい。

P.S. 写真は、左から佐藤しのぶさん、メッセージ、そして当日のプログラムです。

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2008年4月24日 (木)

我、この愛に殉ずる・・・「残菊物語」

■先日観たお芝居のお外題は「残菊物語」。映画や新劇でよく演じられる名作の一つですが、この作品を舞台のお芝居で観たのは、これが初めて。歌舞伎の世界に身を置く菊之助と、その芸を心底愛したお徳の純愛。涙なくしてみられない至純の愛の舞台。「我、この愛に殉ずる」・・・この感動をお伝えしたく、ブログのキーボードに自分の思いを込めました。

ご承知かと思いますが、この狂言は、歌舞伎の名優「尾上菊之助」の悲恋をほぼ実話にもとづき、それを描いた村松梢風の原作。映画と新劇の世界では、過去たびたび制作そして上演された作品です。


■悲恋のストーリー・・・その壱

恋する2人は、明治の歌舞伎界に名門に身を置く「尾上菊之助」と尾上家に勤める乳母「お徳」の物語。菊之助というと実は、五代目菊五郎の養子の身の上。慣れ親しむうちに自然の成り行きで二人の間には、愛が生まれる。梨園の世界で、しかも許されない関係は、そのうちに世間の噂となる。世間にあからさまになる前にと、菊五郎は、お徳に説いて聞かせた。「役者は世間様あっての浮草稼業。菊之助は、人気の出始めた大切な時期。その菊の助の結婚の相手が、弟の乳母だった出戻り女だと世間が知ったら・・・」と説いてふせた。それでも、若い菊之助の恋は一途で、一度は身を引いたお徳を連れて東京を後にする。

尾上菊之助は養子ながら歌舞伎の名門、五代目菊五郎の後継者として苦労なく育ったが、それだけに自分の芸以上の人気にひとり酔いしれていた。この思い上った菊之助の芸を真実こもった言葉でたしなめたのは寺島家(菊五郎の本姓)に雇われていた弟幸三の若い乳母「お徳」だった。

■悲恋のストーリー・・・その弐

結果として、菊之助は勘当され宗家の寺島家から姿を消した。そして、関西歌舞伎の大御所、「尾上多見蔵」を頼り旅立った。名を「松幸」と改めた菊之助は芸道に励んだ。しかし客の見る目は厳しく、当然のことながら、当時の菊之助の実力の評価は極めて低かった。場末の二階一間を借りながら二人は晴れて夫婦となった。が、しかしその矢先、頼る「多見蔵」に死なれ地方廻りの旅役者に身を窶さねばならなかった。長旅の間に「お徳」は労咳となり、菊の助にとって苦難の日が続いた。彼の将来を案じた「お徳」は菊之助の親友「福助」に歌舞伎界の復帰を懇願。その甲斐あってか、しばらくの後、菊之助は再び表舞台に立てたわけだが、その陰には「お徳」が身を退くという残酷な犠牲も払われてた。その後再び、菊五郎の一座に加わった。そして時が経ち、菊之助は大阪「角座」立つことが出来た。一方、その興業の初日「お徳」は重い病の床に臥していた。

■悲恋のストーリー・・・その参

お徳の病を知った菊の助は、晴れの舞台のさなか、舞台衣装のまま。末期が迫る迫る「お徳」の枕許に駈けつけた。大切な初日の舞台のこととて、菊之助は、再び角座へ帰り、菊五郎と親子獅子を華やかに踊った。その時お徳は臨終を迎えたのであった・・・。

■観劇の後は・・・

このストーリーは、あまりの悲恋物語のため、暫くは自分の想いをブロクに書く気持ちにはなれませんでした。今こうしてブログをしたためているこの時でさえ、何か胸に詰まるもので一杯です。混沌とした今の世では信じられない位の「純愛物語」。古き良き時代の日本人の奥ゆかしさを感じるとても上質なお芝居でした。

■エピローグ

我、この愛に殉ずる・・・「残菊物語」という奥ゆかしいタイトルに改めて感動。機会があれば、「長谷川一夫さん」と「淡島千景さん」版の映画をぜひ見てみたいと思います。端正な顔立ちのお二人の瑞々しい姿と若き日の「中村玉緒」さんのお姿も見られるお宝ビデオだと思います。

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

写真は「新川劇団」が演じる「残菊物語」の3カット。「博也と笑也」の熱演をとくとご覧下さい。

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2008年2月18日 (月)

伝説のバンド 「ルムンバ」

■25年前の懐かしい思いで

約25年前のことです。以前勤めていた会社で同好の志が集まりバンドを始めました。
数回の音合わせのうち「ボーカル」「ピアノ」「ギター」「キーボード」「ドラムス」「ベース」「コンガ」自然とそれぞれのパートがきまっていきました。

同じ会社のなかで、それぞれ所属する部門は、人事課・特販課・企画課など全く違うセクション。そしてメンバーの中でギターの二人は、身内の弟という社外からの応援。
しかし一旦練習日が決まると、仕事はさしおいて何が何でもその日のその時間には、必ず集まるという徹底ぶりでした。もちろん仕事がはねてからの練習でしたが・・・一体どこにそんなエネルギーがあったのでしょうか?今の生活パターンからは想像できません。

■第一回・さよならスタジオライヴ〜そして屋外ステージも

バンドを始めると、誰かに聞いて欲しいというのが素直な気持ち。バンド名は「ルムンバ」ときまり、社内報の呼びかけで「第一回・さよならスタジオライヴ」開催の運びとなりました。時は、今を遡ること25年前の1982年5月でした。当日の曲は以下の通りです。

1)A列車で行こう
2)サニー
3)サマータイム
4)この胸のときめきを
5)どうぞこのまま
6)Blue Sude Shoes
7)朝日のあたる家
8)つめ 

メンバーのやりたい曲を並べるとこうなりました。
他にも数曲演奏したはずですが残念ながらその記録はいまでは、残っていません。
(その後数回の屋外ステージも経験させていただきました・・・)

■ボーカルは「ヤマハポプコン」出身

バンドに参加して最初に驚かされたのはボーカルの「Naomi」さんの声量と音程の素晴らしさ。えらいところにきてしまったというのが、正直な心境。「ヤマハのポプコンに参加して、レコードをだした」という話をその当時聞いたことがありましたが、えいままよとばかりその後の練習に参加したのですが、いついっても彼女の歌唱力には圧倒されていました。

昨年ふと当時のことが思い出され、懐かしのあまりおぼろげな記憶で「ヤマハ・ポプコン」でネットを検索してびっくり仰天。第九回ポプコンの入賞曲に彼女の名前を発見したからです。しかも同時に入賞したのが「矢神純子」「中島みゆき」「庄野真代」「松崎しげる」といったそうそうたるメンバー。ぶったまげました、当時そんなことをおくびにださなかった彼女には、ぬけぬけとバックバンドの1パートを演じさせて頂いたと思うと、とっても恥ずかしく、穴があったら入りたい心境です。

■天国のバンマスへ

ベースにさわったこともなかった私に、チューニングから弾き方まで教えて下さったバンマスには、今でも頭がさがる思いでいっぱいです。ピアノ・ドラム・ギター・ベース・コンガ・・何でもこなせる器用な方でした・・・でもそのバンマスも今では天国の人。

きっと「天国よいとこ一度はおいで・・・」なんてのんきなことをいって、みんなを集めピアノの弾き語りでもしていることでしょう。そんな気がしてなりません・・・

■エピローグ

そんなこんなして、小生も還暦をむかえました。が、しかし昨年から俄に再び音楽への情熱が高まってまいりました。幸いにして、ドラムス・ギターと楽器をさわる友もできました。25年前のあの情熱を思いだし、今年は、新しいメンバーでバンド再結成にむけて準備を始めたいと思っています。バンド名は「60's(シックスティーズ)」
介護施設を中心に演奏活動ができれば・・・という夢を見ている今日この頃です。

P.S, 当時の貴重な写真とライヴの録音テープが残っていました。デジタルサウンドに変換しましたのでぜひご試聴下さい。

曲は、ジャズのスタンダードナンバー「A列車で行こう」です。

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「1_a.mp3」をダウンロード

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2007年8月19日 (日)

「梅川・忠兵衛」と新ノ口村

■念願の「新ノ口」へ

お盆のある日、念願の大和新口(にのくち)村(現:奈良県橿原市新口町)に行って参りました。橿原市の観光マップををたよりに、近鉄電車の橿原線・新ノ口駅に到着。いきなり、駅前の石碑が目に飛び込んできました。駅から歩くこと約5分、青田に流れる水路が、キラキラと光る夏の日差しをうけ、その向こうに新ノ口の集落。
昔の面影を残すお蔵もいくつか点在し、三百年前の世界にタイムスリップしたような胸の高まりを感じました。

くねくねとした細い路地を進むと、善福寺というお寺さんがあり、門を潜ると梅川・忠兵衛の供養碑がひっそりと佇んでいました。この地で「忠兵衛が生まれ、そして梅川とともに捕捉されたのか」と思うと、胸にじ〜んと熱いものがこみあげてきました。お盆のこの時期に訪れることのできたのも、何かのご縁と、本堂の仏さんの前で手を合わさせていただきました。

■「梅川・忠兵衛」とは

「冥土の飛脚」の主人公「忠兵衛」は、孫右衛門の子として、大和新ノ口で生まれ、縁あって大坂・淡路町の飛脚問屋「亀屋」の養子と迎え入れらることとなる。
真面目に働く一方、とあるきっかけで、新町(現在の大阪市西区新町1丁目)の「井筒屋」の遊女・梅川に入れあげてしまう。挙げ句の果て、梅川を身請けする為に公金の三百両の封を切ってしまう。
・・・このくだりが「封印切りの段」

罪を犯した忠兵衛と梅川は、大和路をさまよい、三輪の茶屋(現在の奈良県桜井市大三輪町)で数日を過ごし、せめて最後は懐かしの故郷でと思い、新口村へと向かうことになる。忠兵衛と実父・孫右衛門との再会は、忠兵衛が罪人なので対面できない。それをとりもつのが、梅川で、三人三様の様子が繊細に描かれる。
・・・このくだりが「「新ノ口村の段」

つかの間の実父との対面ののち、二人は捕えられ、忠兵衛は、公金使い込みの罪で宝永七年(1710年)12月5日に大坂千日前の刑場で露と消え、一方の梅川はその後、釈放されたという。 

この事件を題材に、その翌年に近松門左衛門が人形浄瑠璃の台本として書き、やがて歌舞伎でも「冥途の飛脚」「恋飛脚大和往来」として、演じられるようになる。その後改作されたものの、現在まで受け継がれる不朽の名作の一つとなったという・・・

■閑話休題

〜 一両は、今の貨幣価値でいくら 〜

下世話な興味がわき、早速調べてみました。その結果、一概に比較するのは難しい事が分かりました。因みに大工さんの手間賃=賃金で換算すると、1両=30〜40万円位。三百両というのは、今で云うと、およそ1000万円強、何れにしても大金であることは、間違いありません。

〜 江戸時代の大阪の飛脚屋とは 〜

飛脚屋は今でいう郵便局と銀行を併せ持った通信金融業者。古くは、鎌倉時代から、早馬を掛ける通信連絡の役があったが、寛永年間(1624〜1643)年ごろからは、大坂に民間の飛脚業者が生まれると、これを町飛脚と呼んだ。町飛脚は享保年間(1716−35)には江戸から上州、奥羽地方などにも広がるようになり、書状や荷物以外に現金や為替も扱ったという。そうした時代に大阪〜江戸間を、大金やら書状を預かり届けるのが、亀屋をはじめととする飛脚屋だったという。

■近松なら、今の時代を何と斬る・・・

最近の殺伐とした世相の中で、もし近松が今の世に生きていたなら、なんという台本を書くのか・・・あまりの事件の多さに、作品を書く前に筆をおいてしまうかもしれません。
彼の生きた江戸末期は、というと(勿論それ以前は云うまでもありませんが・・・)、庶民の心は、義理、人情にあふれ、人と人とを助け合う、現代社会には忘れられてしまった濃厚なふれ合いがあった・・・だからこそ近松門左衛門の作品も多くの人の感動を呼んだ・・・そんな気がしてなりません。

■エピローグ

猛暑と云えども、今年も既に立秋を過ぎ、あと十数日で九月を迎えます。自然のながれは、確実に季節の移り変わりへと進んでいます。やがて実りの時を迎える頃には、青田も一面の黄金色に輝く世界となる・・・感慨深い思いで、新ノ口を後にしました。

因みに、2010年は、忠兵衛の三百回忌だという。機会があれば、ぜひ法要に参りたいと思っています。

拙文を最後まで、ご覧頂き誠に有り難うございました。

恥ずかしながら、拙文に続いて、拙句を一つ

噎せ返る 青田のむこう 赤とんぼ

■P.S.

掲載写真のご説明です。左から、新ノ口駅前にある「梅川・忠兵衛」の石碑、善福寺の門、梅川・忠兵衛の供養碑の順です。

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