旅行・地域

2009年4月17日 (金)

絶品・・・京の都「一休さん」の「きんぴら肉うどん」

しだれ桜咲く春の某日、所用で京都へクルマで向かったとき、ふと「一休さん」の「きんぴら肉うどん」のことを思い出しました。そうだあの味を食べに行こう・・・十数年ぶりの記憶を辿りながら京都南インターを南下。やはりありました「一休さん」のお店。その感激をお伝えさせていただきます。

■最初に「きんぴら肉うどん」を食したのは約15年前・・・。

初めてお品書きを見た15年前、「それなに、どんな味」といった素朴な疑問にかられて食しました。ところが一度口に入れてみると絶品。私の乏しい日本語力では筆舌にしがたい、摩訶不思議なおいし〜いお味。

お店に入り、待つこと約20分。「お待ちどうさん」の声とともに摺り鉢のような大きな器の中に上品に収まったお饂飩が目の前に現れました。微かに漂う和風だしの香り・・・そこにお肉の旨みと牛蒡の食感がなんとも云えない陶酔の世界に誘います。いったい誰がこの組み合わせを考えたのか・・・。雅な京の都、和の粋を感じさせられます。

■一休さんの操業は23年前とか・・・。

さすがもと意匠デザインをしていたという女将さんの味。とことんこだわったお上品な味覚は絶品。「論より証拠と申します」、京都にお立ち寄りの節は、ぜひ「一休さん」のきんぴら肉うどんをおすすめ致します。

満足感にしたりながら「おおきに」の声を背にしてお店を後にしました。

以上「京都美味情報」より。

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2008年9月28日 (日)

浪花の街へ1泊2日の股旅

「月に1回のブログ更新」をと心に誓ったもののその期限があと3日と迫って参りました。子供の頃の夏休みの宿題を思い出します。切羽詰まらないと行動を起こさないのは、あの頃からの習性なのでしょうか・・・。やっとの思いでブログをしたためました。

■はるばる来たぜ大阪へ

九月の半ば大のご贔屓「三河家劇団」さんの大阪公演に所謂「追っかけ」で浪花の地へ行って参りました。場所は城東区・深江橋の「満座劇場」。三河家劇団さんとは約5ヶ月ぶりのご対面です。待ちに待った劇場公演。「どきどき、わくわく」この二日間どんなお芝居と踊りを楽しまさせていただけるのか、・・・。期待と興奮に胸が高まるばかり・・・。
「開演です!」の場内案内で「三河家夢の舞台」の幕はきって落とされました。

■大阪といえば道頓堀と新世界

好きなお芝居の観劇の他、大阪への旅のもう一つの魅力は、何といってもミナミの街の散策。中でも道頓堀と新世界の界隈がお気に入りのスポット。いずれもレトロ感覚と人間味が交錯し、それぞれ特徴のある不思議な調和を街全体が醸し出しているから。

☆その壱の1・・・「道頓堀」界隈→ミニ歴史とサインボード編

道頓堀(どうとんぼり)とは、大阪府大阪市を流れる木津川と、東横堀川を結ぶ全長約2.5kmの運河を示します。1612年、安井道頓らが私財を投じて運河開削に着工、1615年に完成し、新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、松平忠明が道頓の功績を評価し、道頓堀と名づけられたという。

一方、大阪=派手というイメージを全国の人々に植え付けている要因の一つにここ道頓堀界隈のど派手な看板・広告塔合戦。かの有名な「グリコ」の巨大電飾看板、動く「かに道楽」なんかがその両横綱か・・・。その看板が集中するのが戎橋界隈、テレビや映画のロケで使われることも多く、そんな電飾看板をバックにして佇んでいると、まるで自分がドラマの主人公になったような錯覚に陥ります。昨今その仲間に加わったのが、ドン・キホーテの観覧車「えびすタワー」。いやはや何と表現したらいいのか・・・その説明には言葉を失います。

もちろん食に関しても「くいだおれ」てしまうほど沢山のお店がある。大阪名物のたこやき、お好み焼き、ふぐ料理、お寿司、うどん、蕎麦など・・・まさに「あれも食べたい、これも食べたい、ぜ〜んぶ食べたい」・・・大阪一のグルメタウンだ。

☆その壱の2・・・「道頓堀」界隈→法善寺横町と宗右衛門町編

道頓堀の南側の狭い路地を入っていくと織田作之助の小説「夫婦善哉」で知られる法善寺横町があり、昔ながらの石畳の奥に「水掛け不動尊」がある。お不動さんに水をかけ願い事の願をかけるため不動尊は全身を緑の苔の衣をまとっている。また、その名のとおりの「夫婦ぜんざい」もある。丹波産の黒豆使った上品な甘さで何杯でもお代わりできそう・・・。

川を挟んで道頓堀の北側は、クラブやスナックが建ち並ぶ、かの有名な「宗右衛門町」。昼間からでも一種独特な雰囲気。夜の帳がおりるとミナミ一番の歓楽街となる。昭和47年(1972年)、この街の名を取り入れた歌謡曲「宗右衛門町ブルース」(平和勝次とダークホース)が200万枚の大ヒットを記録した。

きっと来てねと 泣いていた
かわいあの娘は うぶなのか
なぜに泣かすか 宗右衛門町よ
さよならさよなら 又来る日まで
涙をふいて さようなら

街のネオンも 消えてゆく
うぶなあの娘も 消えてゆく
なぜかさびしい 宗右衛門町よ
さよならさよなら うしろ姿も
夜霧にぬれて さみしそう

いちょう並木に 春が来る
君にも来るよ 幸せが
なぜかかなしい  宗右衛門町よ
さよならさよなら もう一度だけ
明るい笑顔を みせとくれ

☆その壱の3 ・・・「道頓堀」界隈→上方芸能の本拠地編

話は元に戻りますが、道頓堀の発展とともに、1660年代頃から多くの劇場ができはじめ、中座、角座、竹本座、浪花座、弁天座、朝日座などの劇場で、戎橋から東に存在したこれらの劇場を「五つ櫓」とも云われ、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられたという。近松門左衛門もこの地があったからこそ後生に残る名作の数々を生み出した・・・これは私自身の勝手な推測ですが・・・。

以後、時の流れとともに、演芸の世界も盛衰を辿りましたが、芸人を育て、そして連綿と現在までその精神を受け継いでいる街と云えます。現存するのは大阪松竹座、新歌舞伎座、そしてお笑いの吉本の「なんばグランド花月」、はたまた大阪府立上方演芸資料館など、今でも各種演芸場が建ち並ぶエリアとしても道頓堀は有名です。

☆その弐・・・「新世界」界隈編 

NHKドラマ「ふたりっ子」で一躍脚光を浴びた、大阪一の下町の新世界。このドラマの大ヒットで週末は、観光客で大賑わいの一大観光スポットとなりましたが、実際は、庶民の生活感と「下町スピリッツ」が生きる街。「うまい、安い、温かい」の三拍子揃った老舗グルメスポットが狭いエリアに集中的に軒先を並べている。串カツ・寿司・フグ・そばなど何でもあり、昼間から串カツを肴に気軽に立ち飲みできるお店もたくさんある。

他に目立つのは「囲碁・将棋センター」「歌謡劇場」「大衆演劇場」「パチンコ」など食と娯楽のことならすべてそろっているのが、このエリアの特徴。ではこの渾然とした街が何故「新世界」なのか・・・その謎に迫ってみることにしました。

そもそもこのあたりの開発が始まったのは明治36年(1903)に開かれた内国勧業博覧会がきっかけ。これを機に市電も開通し近くの天王寺公園の完成も相まって街は急速に発展していくことになる。また、当時大阪一の歓楽街であった千日前が大火災で全滅。その復興よりも一足早く立ち上がったのがこの街。当時で云うと東洋一の歓楽街=「新世界」・・・ということで自然と名付けられたようです。そのど真ん中に位置するのが「通天閣」。「新世界にある天に通じる楼閣」・・・大言壮語というか・・・これ以上の説明は何もいりません。

■エピローグ

こよなく愛する大阪・ミナミの街に話題の多くをさいてしまいましたが、もちろん旅のメインテーマ「大衆演劇の鑑賞」もバッチリ。人情演劇に涙したり、お気に入りの三河家劇団さんのお芝居と踊りを満喫させていただきました。座長、お諒さん二日間本当にありがとうございました。

拙文を最後までご覧いただき誠にありがとうございました。ブログの左上「お気に召すまま・・・」で平和勝次さんが歌う「宗右衛門町ブルース」のサイトにリンクを張らさせていただきました。よろしかったらカラオケでどうぞ・・・。

写真は上から道頓堀、通天閣、新世界の順です。

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2008年5月15日 (木)

江戸情緒が漂う川越・・・約半日の旅

5月のある日、仕事の関係で宿泊先が川越となりました。この地を訪れるのは、これが初めて。昨年東京のお知り合いの方から、川越のパンフレットをお送り頂いたことが、今から思うとこれも何かのご縁だったのでしょうか・・・。

■ファーストインプレッション・・・

凄く長い商店街・・・行けども行けども両側は、お店ばかり。

東武東上線川越駅から続く商店街は、とにかくストレートで延々と続く。しかも鄙びたお店から洒落たファッションのお店まで、とにかく何でもありの印象。その先にあるのが、小江戸と呼ばれる人気の観光スポット。仕事の合間の暫しの一時でしたが、川越は私の想像していた以上に素晴らしい街でした。

■川越の歴史を紐解いてみると・・・

我が家に帰った後、持ち前の好奇心が湧き、早速近くの図書館で「川越」についての俄勉強。調べてみると興味深いいろいろな新発見がありました。東京に一番近い城下町・川越には、古き良きものがたくさん残っています。その歴史を紐解いてみると・・・。

☆古代の川越は・・・

大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海だったという。縄文時代にはすでに人々が生活があり、弥生時代になると大陸から伝わった稲作が行われており、市内のあちこちで貝塚や古代の住居跡も見つかっている。

村の形成とともに階層が生まれ、古墳も築かれる。そして古墳時代を経て奈良・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移る。そしてこの時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などにもはっきりと「河越(川越)」という地域が記述されている。

☆近世の川越は・・・

天正18年(1590)徳川家康の巻頭支配に伴い、川越藩が置かれた。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な大名を配置した。また歴代の大名のひとり松平信綱は城下町を整え、江戸との商業流通を活発化させ、特に河川での舟運は、川越と江戸との文化交流をもたらしたと云う。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末まで賑わいをみせたという。

☆近現代の川越は・・・

時が変わって、明治になっても川越は商業都市として繁栄し続けます。というのは、関東平野の中心部にあって穀物流通の中継地として栄え、一方織物の産地としてその名をはす事となる。

不幸な歴史としては、明治26年(1893)の大火では街の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに着目しと云う。今も残る蔵づくりの町並みはその時の貴重な遺産が今に伝えられているといってもかごんではない。新たに市政がが敷かれ「川越市」となったのは、大正11年。現在川越は首都圏近郊の中核都市として更なる発展を続けている・・・。

■小江戸と云われる由縁・・・

「小江戸」と呼ばれる地域は、関東一円にいくつかある。例えば、栃木市、佐原市などが代表的。その定義はというと、「江戸との関わりの深い街」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」「江戸のように栄えていた街」など。共通根としては、「古い町並みが今なお残っている」、また現代の東京では見られることのできなくなった、当時の雰囲気をもった街といったところでしょうか・・・

■観光スポットのいくつか・・・

☆時の鐘
川越のシンボルとなった時の鐘。 今風に例えると「川越タワー」といったところでしょうか。

☆蔵造りの街並み・・・

蔵造りは、元々は江戸から明治に続くの商家の耐火建築です。 現存の多くは、明治26年の大火以後に建てられたもの。 この付近は電柱も地中に埋められて、当時の雰囲気を保っているという。

☆菓子屋横丁・・・

細い路地に、手作り菓子屋が軒を並べている。 昔なつかしい駄菓子や、お団子、又川越名物いも芋を加工した煎餅などが並べられている。

☆大正浪漫通り

古き良き大正時代を思い起こさせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。埼玉りそな銀行を代表する鄙びた建物が連なり、まるでタイムスリップしたような雰囲気につつまれた町並みが続きます。

■もうひとつの川越名物・・・鰻の「いちのや」さん

天保3年(1832年)創業の鰻の老舗。板張りの風格のある店構えの戸をくぐると、香ばしいうなぎを焼くの匂いに迎えられる。店内の調度品は、襖、掛け軸、置物にいたるまで細かな配慮がさりげなくなされ、とっても上品な雰囲気。初代より受け継がれてきた、「いちのや」の鰻料理は絶品。適度な焦げ目のついた肉厚蒲焼に、甘く香り立つ秘伝のたれ。天保の時代より今に受け継がれた老舗「いちのや」さんならではの本物のお味でした。    

■エピローグ

仕事の合間に垣間見た「川越」は、言葉には言い表せない、また今までに訪れたことのない独特の文化を持った街でした。機会があれば今度はじっくりとカメラを携え訪れてみたい・・・そんな思いで川越の街を後にしました。

拙文を最後までご覧頂き、誠に有り難うございました。

写真は左から「時の鐘」、「古い町並」、「アンティックな店先にあったキャンドル」そして名代の「いちのや」さんです。

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2008年4月21日 (月)

お芝居に誘われた「2.5泊と4日の股旅」

■ドリーム&ひかり お芝居に誘われた「2.5泊と4日の股旅」

4月の上旬、大のご贔屓「三河家劇団」さんの公演が九十九里の「太陽の里」であることを知り、思い切って「2.5泊と4日」の強行日程を覚悟で名古屋から房総の茂原まで、でかけて参りました。ネットでいろいろ調べているうちに、お昼の公演に間に合うには「ドリーム&ひかり」の手段しかない、しかもお値段もお得という切符があることを発見し、これだ!とばかりに早速JTBさんで、その「プラチナチケット」を入手しました。

■10年ぶりの「「ドリーム号」

ワクワク、ドキドキの旅の始まりは23:30発の「ドリーム号」。3列シートの座席は、少々窮屈なものの仮眠して行くには、充分のスペース。静かにハイウエイバスはターミナルを滑りだしました。と同時にウィスキーのストレートを喉にゴクッと一気に流し込み眠りにつきました。途中2回のトイレタイムを挟み、翌朝の06:10には、無事八重洲に到着。何だか寝たような、寝ないような不思議な気分でバスを降り、とりあえず「吉野家」さんの「鮭定食」で腹ごしらえ。

■九十九里の茂原までは、総武線の快速列車

途中、日本橋馬喰町の親戚に立ち寄り、いよいよ目指すは、九十九里の茂原。総武線の快速列車で所用時間は、約74分。あっという間に茂原に到着しました。

「牛に引かれて善光寺参り・・・」ならぬ「お芝居に誘われ九十九里詣で」といったところでしょうか・・・。茂原は地図でみると外房線の一番外れ。思えば遠くに来たもんだ。ホテルのお迎えのバスに乗ること約20分で目的地の「太陽の里」に到着。そこで東京のお知り合いの方のお出迎えを受けました。

■大のご贔屓の「三河家劇団」さんを二日間の通しで観劇

お陰さまで九十九里では、ご贔屓の三河家さんのお芝居を大先輩のご夫婦と一緒に観劇ができる、という幸せの時間を過ごすことができました。座長の「三河家桃太郎さん」そして「お諒さん」とも久しぶりのご対面。そして「三河家劇団」さんのお芝居を心ゆくまで観られる・・・「もうこれ以上の至福の時はない」、「時間よこのまま止まっていてくれ」・・・という夢のような二日間はあっという間に過ぎていきました。

後ろ髪を引かれる思いで、お名残惜しい茂原を後に再び総武線に乗り込みました。次の行き先は江戸川区の小岩。聞くところによると、小岩は「栃若時代」で一世を風靡した、あの名横綱「栃錦」出生の地とか・・・。

■念願の葛飾柴又へ

小岩で一泊の後は、念願の柴又へ。映画で何度も観た「寅さん」の世界へ移動。いきなり目に入ったのは京成電鉄・柴又駅の「寅さん」の銅像。そして帝釈天への参道を歩いていると、まるで自分が映画の中に登場しているような錯覚に陥りました。「草団子」、「帝釈天」、「江戸川の堤」、「矢切の渡し」など映画でしか観たことのない場面が、次々と現実に目の前に出現し、懐かしいというよりは、今でも渥美さんが演ずる寅さんが現れそうな雰囲気がたっぷり。少々小雨模様でしたが、またこれも柴又風情を楽しむのには良かったかも知れません。もちろん「寅さん記念館」にも立ち寄りました。

■柴又のあとは、大衆演劇のメッカ「浅草木馬館」へ

「さくら」が「寅さん」を見送るシーンに必ずといっていいほど出てくるのが「京成・柴又駅」。寅さんの銅像に見送られながら、今度は浅草を目指しました。浅草寺には、過去3度ほど訪れたことは、ありましたが、「木馬館」に入ったのは、これが初めて。「どの劇団が、どんな芝居」をという予備知識なしにいきなり館内に入場。さすが平日にもかかわらず館内は超満員、やっと席を見つけてお芝居の始まりを待ちました。お外題は「殺陣師・団平」。とてもいいお芝居でした。

■エピローグ

慌ただしかった4日間の旅もこれでフィナーレ。茂原〜小岩〜柴又〜浅草・・・と辿ったルートを振り返ってみると、共通根は、やはり「お芝居」の世界。まさに大好きな「演劇」を追い求めての股旅でした。帰りの新幹線の中で、流石に体は少々バテ気味でしたが、心の満足度は200%以上。今回の旅を通してますます「お芝居」の世界が病みつきになった感がいたします。

拙文を最後までご覧頂き、誠に有り難うございました。

■最後に拙歌をおひとつ

『名残惜し 九十九里浜 後にして 寅さんしのぶ 柴又の街』

写真は左から、「太陽の里」「柴又」「浅草木馬館」の順です。

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2007年7月28日 (土)

「こもりくの里」初瀬と三輪素麺

先日(7月26日)仕事で「こもりくの里」奈良県の初瀬に行く機会がありました。この地を訪れるのは、数えてこれで5回目。最初は 牡丹の咲く春、次は雪の降る冬、またある時は、紅葉の秋だったりしましたが、同じ地でありながら、この初瀬は、それぞれ違う四季折々の風情があり、まさに日本の四季、そして今では数少なくなった日本の原風景と出会うことができます。今回は梅雨明け直前の夏。クルマを降りると、青田の風景とともに、盆地特有の湿気を含んだ何とも云えない噎せ返るような空気が私を迎えてくれました。それも午後からの夕立で、瞬時にして、木立も生き生きとした万緑を蘇らせ、まさにマイナスイオンがいっぱい降り注ぐグリーンシャワー。いにしえの人が好んでこの地を訪れたのも、むべなるかな、という思いがしました。

恥ずかしながら、初瀬一体を「こもりく」と呼ばれることを知ったのは、つい数年前のこと。それ以来、この地について俄然として興味がわき、図書館で関連の本を借りるなどして、いろいろ調べてみました。驚くことに、初瀬は古来から様々な書物に数多く記されており、当時の文化人にとっては、初瀬は「畏敬の地」であり、また「憧れの地」として崇められていたことが、よ〜く分かってきました。

初瀬の当時のイメージを、私なりの大胆な現代解釈をさせて頂き、そのキャッチフレーズをつけるとすれば「キャンペーンの抽選に応募して・・・一生に一度は行ってみたい『こもりくの里』」ではなかったかと。

■文学に見る「こもくりの里」初瀬(泊瀬)

=万葉集の中で=

隠国(こもりく、「く」は場所の意味)とは、両側から山が迫って、それに囲まれたような所を示す枕詞で、柿本人麻呂が万葉集で、次の歌をよんでいます。

 こもりくの 泊瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹に かもあらむ

 事しあらば 小泊瀬山の 石城にも 隠らば共に な思ひわが背
 
万葉人がかくまでも思いを寄せたこもりくの山・川・里を詠った万葉歌は、他にもたくさんあります。

 こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ 時雨の雨は ふりにけらし も

 石走り 激ち流るる 泊瀬川 絶ゆることなく またも来て見む

=「源氏物語」と「枕草子」中で=

紫式部の「源氏物語」では、玉鬘の姫君が、京都から徒歩で来て、4日目に初瀬に着き、観音さまに詣でるくだりや、また、清少納言も「枕草子」の中で、「初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」・・・など、初瀬と長谷寺について、平安文学では「初瀬詣出」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで、この地が賑わった様子が描かれ、云わば日本三大名所のひとつとして紹介されています。

■信仰の地・・・初瀬・長谷寺

なぜ、これ程までに、文化人にとって「畏敬」と「憧れ」の地であったのか。それは長谷の里が、三方を山で囲まれている地理的なロケーションの要因もありますが、そこにある長谷寺の存在があったことは、云うまでもありません。長谷寺には国宝の「銅版法説相図(千仏多宝仏塔)」があり、そこに記されている銘文によると、道明上人が飛鳥浄御原の天皇のために成年に造立したという。これにより686年を創建の年とし、その後、神亀4(727)年に徳道上人が十一面観音を安置し、観音信仰の寺になったとか。

長谷寺の特徴は、本堂に至るまでの長さ二百米、三百九十九段の「屋根付きの石段回廊」。天井には灯籠が下がっている。息を切らせながら石段を登ると、本堂が現れる。間口九間、奥行き五間。本堂の前は、広々とした舞台があり、木造建築物としては東大寺大仏殿、吉野山蔵王堂に次ぐ規模という。慶安3(1650)年に徳川家光が再建し、堂内に安置されていた本尊十一面観音像も木造では国内最大級という。金色の御姿は、天文7年(1538)の作といわれ、本堂とともに国の重要文化財とされている。

また長谷寺は、「花の寺」としても有名で、桜、牡丹、石楠花、紫陽花、紅葉など、四季折々の花を愛でることもでき、写真愛好家には、被写体として、とっても魅力的な寺でもあります。

■三輪の里・・・盆地の地形と歴史が生み出した「三輪素麺」

「大和三輪素麺 名物なり 細きこと糸の如く 白きこと雪の如し ゆでてふとらず 余国より出づる そうめんの及ぶ所にあらず」(日本山海名物図絵1754年)
三輪そうめんの由来については、古い伝承があります。大物主命の後裔で、大神神社の宮司大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそんさいくさ)の次男穀主(たねぬし)が、三輪の里の土地が小麦の栽培に適しているのを知り、種を蒔かせその小麦を原料にしてそうめんを作り、地域の生業を発展させようとしたのが始まりであるといわれています。

盆地である三輪の地の中心にあり、数々の歴史にその名を刻んだ「初瀬」、その風土が生んだ味の傑作、それが「三輪素麺」。長い歴史が伝統の味になり、磨かれた技が独特の風味を生みだしたと伝えられています。

■エピローグ・・・六代目・創作手延師 山下勝山さん

この段に至るまで、随分と長いイントロになってしまいましたが、今回の初瀬訪問のクライマックスは、六代目・創作手延師「山下勝山」さんの麺工房の訪問と麺づくりへのこだわりの取材。作務衣姿で現れた勝山さんは、数年前にお会いした時より、更にパワーアップされた印象で、まさに「巨匠」の風格たっぷり。工房見学の中で、原料の小麦、使う水、そして独自に編み出した製法など熱心に語られる六代目の喋り口に、この地における歴史の重みをご自身の創りだす作品(創作手延麺)で体現されていると、納得いたしました。

その麺工房の傍らで頂いた手延麺「一筋縄」は、まさに絶品。「余国より出づる そうめんの及ぶ所にあらず」という言葉がピッタリの味覚。巨匠の説明をお聞きしながら頂くので、またそのお味は格別。思わず何杯も「お代わり」をしてしまいました。一緒にご用意頂いた「柿の葉寿司」との相性もベストマッチ。歴史のロマンとこだわりの味覚を食し、大満足の一時を過ごさせて頂くことができました。

六代目 過日は、大変お世話になり、有り難うございました。 合掌

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2007年7月 1日 (日)

九十九島のイメージソング「美しき天然」

■ 九十九島にまつわるエピソード「第二章」です。

「クールファイブ」の次に分かったのが、標題の九十九島と「美しき天然」の関連。この曲は、団塊の世代以上の方なら誰もが知っている、そう「あの曲」、幼い頃によく耳にしたあの名曲なのです。今はイベント以外では、めったに見られなくなった「チンドン屋さん」、そして「サーカス小屋」のジンタとしてよく使われていた「甘酸っぱい思い出のメロディー」。曲の内容は、というと「美しき天然」というだけあって、自然を素直に賛美した、いかにも「日本人好み」で分かりやすい曲です。
いったい「この曲」と「九十九島」は、どんな因果関係があるのか? 今回はこのなぞについて、迫ってみます。

時は、今を遡ること約100年前。壮士(『壮士』とは義を貫く男の意味)演歌が流行していた明治から大正にかけて、佐世保で一つの、スローテンポのワルツ「美しき天然」が生まれた。この曲を作曲したのが、田中穂積。勇壮な歌詞の割には、のんびりとしたスローテンポの三拍子のワルツが、不思議とマッチして、瞬く間に、全国の女学生たちを魅了していった。田中は、当時「佐世保海兵団軍楽隊長」の要職あり、佐世保女学校の音楽教師も兼任していた。軍人として赴任した先にある風光明媚な「九十九島」の美しい景観をなんとか、曲に出来ないかと考えていたそんな折、東京高等女子師範の教師、武島羽衣が書いたある詩と運命的な出会いとなる。

空にさえずる 鳥の声 峯より落つる 滝の音
大波小波 とうとうと 響き絶えせぬ 海の音
聞けや人々 面白き この天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給う 神の御手の 尊しや

とつづられたこの詩は、田中穂積の心の琴線をいたく揺さぶり、自分の思い描く「九十九島」のイメージにぴったりだった。まもなくメロディーが浮かび、あの名曲「美しき天然」完成の運びとなる。時は、明治の33年(1900)のことだった。田中は、明治の軍人らしく、謹厳実直な人柄だったとか。彼を物語る二つのエピソードがある。

(その壱)
海兵団軍楽隊長として佐世保へ赴任する以前のこと、明治二十八年、穂積は、突如として、病の床に伏すが、病状が思いのほか重かったため、気遣いをした友人が東京から令夫人を呼び寄せたところ「軍隊内に婦人が入るべからず」と言って、自ら面会すらせず、その夫人を東京へ追い返したという。

(その弐)
これは明治三十六年のこと、遠洋航海の折り、ある港で日本人のための晩餐会が催されたことがあった。司令官から軍楽隊に「かっぽれ」を演奏するように命ぜられたが、このような俗曲(戯れ歌)の演奏は、軍楽隊の品位に馴染まないといって、その命に従わなかったとか。

一生を軍隊に捧げた後、田中はこの世を静かに去る。享年四十九歳。最後まで気丈な軍人を貫き通したという。いかにも気骨のある明治人っだったといえる。

では、今回の命題「この曲がなぜ後の世まで歌い継がれることとなたのか?」その謎に迫ることとします。

■ 不思議発見・・・九十九島と「美しき天然」編!!

彼の逝去後、とある東京の音楽出版社が譜面を偶然に発見。その譜面が、楽譜として出版され「美しき天然」は、女学生の愛唱歌として歌われるようになり、瞬く間に全国に広まったという。
明治の後期からは、活動写真の弁士の伴奏曲として、バイオリンで奏でられるようになる。哀愁を帯びたこのメロディは、日本人の心にピッタリと馴染み、多くの活動写真の伴奏に使われるようになったとか。

次に「美しき天然」のメロディがサーカスのジンタとして使われるようになったいきさつについては、定かではない。が、しかし、ワルツのリズムは動物に芸を教えるのにピッタリだったからともいわれる。あれほど歌詞にこだわった田中だったが、彼の逝去後は、そのメロディだけがひとり歩きを始め、そして、女学生唱歌とは、また違った形で一般大衆の心をつかんでいった。

■ エピローグ・・・百年前の叡智

天国でも、きっと彼は、謹厳実直の性格のまま、直立不動の姿勢で音楽活動をしていると思います。が、しかし心のなかでは「これは、何かの間違いだ!『美しき天然』は、自然を素直に賛美した曲なんだ!」苦笑しているかも知れません。「地球温暖化現象」などと騒がれている今の世ですが、自然環境保護をもイメージさせるこの曲を作った「田中穂積」の百年前の叡智には、驚きとともに、感動を感じます。以上で、今回の「九十九島レポート」第二章の幕を降ろさせていただきます。

ブログのトップ左上(お気に召すまま・・・)に、美しき天然を歌う「小沢昭一さんの歌声」と「カラオケ」のサイトにリンクをはらさせていただきました。よろしかったらクリックしてみて下さい。

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2007年6月24日 (日)

真珠色した雨が降る「九十九島」

最近数枚の写真をメールで送っていただきました。場所をお聞きしたところ「九十九島」とか。生まれてこのかた、長崎に一度も行ったことのない私の頭の中を、とっさによぎったのが、内山田洋とクールファイブが歌った「西海ブルース」のこのワンフレーズ。いったい「真珠色した雨」とは、どんなんだろうか。九十九島の磯辺を歩くには、快晴の日もいいけれど、きっと雨の日のほうがムードがあって、もっといいのかな? と改めて曲を聴きながら、勝手な想像をしている次第です。

メールの写真がきっかけで、このところご無沙汰気味だった「ブログのテーマ」がきまりました。「善は急げ!?」とばかりに、いつものように図書館にでかけて、クールファイブや「九十九島」について「俄勉強」をしてまいりました。

今を遡ること約40年前、時は昭和の43年(1968)。長崎のキャバレー「銀馬車」の人気バンドだった「内山田洋とクールファイブ」のプロモーターは、実力のある彼らを何とかメジャーな世界に送り出そうとする。そんな中で彼はある時、ネオン街に流れる有線放送から「西海ブルース」の曲のイメージにつながる、とある情報に出会う。早速、クールファイブに歌わせ、オン・エアーしたところ、瞬く間に、リクエストが殺到し、有線放送局が、パニック状態に陥りました。好事魔多しというか、これで念願のレコードデビューという直前に、著作権からみか、このプランも幻のお蔵入り。ところが次に用意された「長崎は今日も雨だった」が空前の大ヒット。その後のクールファイブは、ご承知の通り、次々とミリオンセラーの曲を送り出し、一躍歌謡曲界のスターダムにかけあがる、というサクセスストリー・・・

世の中どこで、何がどうなるのか予測もつきませんね。西海ブルースもその後発売されたクールファイブのLPレコードの中の曲の一つとして、無事収録され、このバンドのスタンダードナンバーとなりました。

そういえば、バンマスの内山田洋さんが逝去された年(2006)の紅白歌合戦には、前川さんの呼びかけで、20年振りにクールファイブのメンバーが揃い、デビュー曲の「長崎は今日も雨だった」を歌唱したシーンを思い出しました。

閑話休題

その壱
「長崎は今日も雨だった」の曲がヒットした年の長崎地方は、異常渇水で給水制限が続き、雨の長崎の情緒を期待して訪ねる観光客もカラカラ天気で期待はずれ。ところが、クールファイブが2枚目に「わかれ雨」を出した途端に、長崎一帯が集中豪雨に見舞われるという皮肉な現象も見られ、ムード溢れる「真珠色した雨」どころではなく、まさに「バケツをひっくり返したような雨」の天災だったとか。

その弐
九十九島をとりまく「西海国立公園」には、実際は208の島々が点在するそうですよ。


Saikaisss

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2007年4月11日 (水)

犬山祭と白帝城

(犬山祭について)今年も4月7日(土)8日(日)の2日間、恒例の犬山祭がありました。生まれ育った「犬山(犬山祭)」という言葉を耳にすると、祭り囃子のむこうに、幼い頃の記憶とともに亡くなった父や母の姿が、瞼の中に蘇ります。夏の木曽川での川遊びや尾張富士の石上げ祭り、蚊帳の中で川の字になって寝入ったことなど、懐かしい思い出でいっぱいになり、思わず胸が熱くなります。「思えば遠くに来たもんだ・・・」。犬山祭といえば「車山(やま)」。祭りに出される祭車は通常「山車(だし)」と呼ばれますが,ここ犬山では「車山(やま)」と呼ばれます。他の地域で見られる二層型のものとは異なり、勇壮な三層の様式が犬山の「車山(やま)」の特徴です。犬山祭は,針綱神社の祭礼で,古くは。江戸時代の寛永年間に練り物が出されたのが起源とされます。それほど歴史のある祭りとして、平成18年には、国の重要無形民俗文化財に指定されました。また、犬山祭りは、太平洋戦争の末期に一度中止された以外は、360有余年、連綿と続けられ現在に至っているそうです。

(犬山城について)針綱神社を通り抜け石段を登ると、ほどなく犬山城が見えてきます。このお城は、室町時代(1600年頃)に築かれ、現存する城では、日本最古のものとしてよく知られています。また、天守閣は戦国時代の古風な様式をほぼ完全な形で残しており、三方を崖に囲まれ、木曽川に面した美しい姿は別名で、李白の漢詩でも詠われた「白帝城」とも呼ばれています。

  早に白帝城を発す  -李白-

  朝あしたに辞す 白帝 彩雲の間
  千里の江陵 一日にして還る
  両岸の猿声 啼きて住やまざるに
  軽舟已に過ぐ 万重の山

犬山の古城は、幾多の戦禍をくぐり抜け、年に一度の華やいだ祭りの時を迎えても、今も静かに時の流れを見守っています。  Inyuyama1_1Inyuyama2_2

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