日記・コラム・つぶやき

2009年7月11日 (土)

海洋葬 〜 友との永遠の別れ 〜 最終章

とうとうその日がやってきました。彼が望んだ海、多感な少年そして青春時代を過ごした「鳥羽の海」の沖合で海洋葬を体験しました。

陸の上にある「鳥羽商船学校の校舎の見える海で俺の骨を散骨してくれ・・・」、それが彼の遺言。

まるで全力疾走で駆け抜けたのような彼の人生・・・出会いは中学2年生の時、たまたま1年間同級だったこと。それがきっかけとなり生涯の友として、互いに切磋琢磨できたことは、私にとって最大の喜びです。

私にとって彼は「誇れる友」、彼にとって私はと思うと・・・とても気恥ずかしい思いが致します。

■海の青、そして白い遺骨・・・

梅雨時でしたが、今日の空は曇りながら時おり陽がさすまずまずの天気。チャーターした船は静かに鳥羽の港を出港し、商船学校と練習船が見える池の浦の沖合で停泊。

「お〜い、とうとう来たぞ」「お前の望んだ鳥羽の海だ」「学校の校舎が見えるだろ〜」。白い遺骨が、静かに青い海の中にとけ込んでゆく。
大好きだった「お酒」とともに花束を海面にそっと手向けると「ありがとな〜」という声が空から木魂のように聞こえてきました。

海面におこるさざ波も「彼の嬉しい表情」に映り、思わず胸の中から熱いものがこみあげてきて「こちらこそ、ありがとな〜」と言葉を返しました。

■至誠一貫・質実剛健・知行合一

彼から学んだものはこの言葉。強いもの(体制の枠組み)に敢然と立ち向かう姿は中学生時代から一貫しており、商船学校、社会人になってもそれはそれは全くぶれることはありませんでした。かっての三船敏朗さんではありませんが「男はだまって」・・・そんな言葉がとても似合う男の中の男でした。

野球はもちろん中日ドラゴンズの熱狂的なファン。その応援ぶりは凄まじく対戦相手の応援団の中でも臆することなく熱烈な声援をおくっていました。

■エピローグ・・・「瞼の母」、いや「瞼の友」

その彼も今は天国できっと私たちを見守ってくれていることでしょう。「しっかりやれよ」と。

ここで、いつものごとく「瞼の母」の銘セリフを思いだしました。「会いたくなったら、じ〜と両の瞼をつむるんだ」「そうすると、いつでも元気な彼の姿が目に浮かんでくる」と。

I have a best friend forever in my heart .

両の掌を合わせ、合掌。

写真は商船学校が見える鳥羽の海と3代目の練習船・鳥羽丸です。

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2009年5月 6日 (水)

友との永遠の別れ〜第4章〜ことばにみる日米文化の比較と類似性

「光陰矢のごとし」と申しますが、友との永遠の別れから早くも半月の時が経ちました。彼のことを偲んでいるうちに、ぼんやり、そして次第にくっきりとあることに気がつきました。

まるでオートフォーカス・カメラの焦点があうように・・・。

それは、前回のブログ・第3章でふれた、芝居の「瞼の母の台詞」に端を発し、行き着いたところは地球の裏の国・アメリカの・・・しかも「キャロル・キングの歌詞」へと、驚くほどの類似性にたどり着いたこと。

いささか硬い表題の見出しで恐縮ですが、新たな発見と感動を徒然なるままに綴らせていただきました。

■日本の文化編・・・長谷川 伸原作「瞼の母」のくだり

軒下三寸借り受けまして・・・で始まる長谷川 伸 原作「瞼の母」は、新国劇や映画で度々上演された股旅(またたび)物の傑作。

それもそのはず、5歳のとき母と生別した作者の実人生に裏づけられた謂わばノンフィクションドラマだから。

やっと探しあてた生母から、冷たい仕打ち。そのなかの名台詞。

何を言ってやんでぇ 何を今更 忠太郎だ
何が倅でぇ 俺にゃおっ母は いねぇんでぇ
おっ母さんは 俺の心の底に居るんだ
上と下の瞼を合わせりゃ 
逢わねぇ昔の やさしい おっ母の
面影が浮かんでくらぁ

逢いたくなったら 逢いたくなったら
俺ァ瞼をつむるんだ

■一方の米国の文化編・・・作詞 キャロル・キング 「you've got a friend」

When you're down and troubled
(君が落ち込んだり、困ったりしたとき)

And you need some loving care
(誰かが恋しくなったりしたり)

And nothin', nothin' is goin' right
(何もかもがうまくいかないときは)

Close your eyes and think of me
(目を閉じて、ぼくのことを思いだしてみて)

And soon I will be there
(ぼくはすぐに傍にいくよ)

To brighten up even your darkest night
(どん底のときだって、ぼくが君の心を明るくしてあげるから)

You just call out my name
(ぼくの名前を呼ぶだけでいい)

And you know wherever I am
(そしたらぼくは、どこにいたって)

I'll come runnin' to see you again
(君のところに駆けつけるから・・・)

Winter, spring, summer or fall
(冬だろうと、春だろうと、夏だろうと、秋だろうと)

All you have to do is call
(君のすることは、ただぼくの名前を呼ぶだけ)

And I'll be there
(すぐに行くからね)

You've got a friend
(ぼくは君の友達だよ)

■驚くほどの類似性・・・ 瞼 = EYES 。

上と下の瞼を合わせりゃ 
逢わねぇ昔の やさしい おっ母の
面影が浮かんでくらぁ

逢いたくなったら 逢いたくなったら
俺ァ瞼をつむるんだ
==============================
Close your eyes and think of me
(目を閉じて、ぼくのことを思い出してみて)

And soon I will be there
(ぼくはすぐに君の傍にいくよ)

■エピローグ

しゃべる言語や肌の色、目の色そして生活様式が違っても人間考えることはみな同じなんですね。よく観劇するお芝居と30年来聞いていたキャロル・キングの歌の底にあるこころの共通感について新たな再発見をしました。

これも友のなせる技か・・・と亦々感謝。そして旨い酒で今宵も一献。

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

■拙文の蛇足

ブログ左上の「お気に召すまま・・・」に中村美律子さんと島津亜矢さんの豪華キャストによる長編歌謡浪曲「瞼の母」前編・後編とキャロル・キングが歌う「you've got a friend」のサイトにリンクをはらさせていただきました。よろしかったらご視聴ください。

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2009年4月29日 (水)

友との永遠の別れ〜第3章〜 一人の「おくりびと」として

無二の親友との永久の別れを通して、彼がまた新たなことを教えてくれました。海の男らしく清々しい旅立ちであったと、改めて尊敬の意を表します。

■家族に見送られる静かな旅立ちでいい・・・。

それが彼の望みでした。彼の遺志にそって、まずは住み慣れた自宅に戻る。そして暫し癒しの時をもち、家族に見送られ静かな旅立ち・・・その希望とおりの形でお別れの会が進められました。

■家族と集まった皆んなが「おくりびと」

生前の彼を偲んで賑やかな語らい。そして安らかな寝顔の彼を皆んなの手で納棺し、お花をそっと添える。お経は、恥ずかしながら、小生が勤めさせていただきました。

宗教とか、しきたりなど形式ばったことが特に嫌いだった彼・・・さぞかし私の唱える拙いお経には苦笑していたことと思います。

■住み慣れた家からの「旅立ち」

彼の体を収めた棺を皆んなの手で乗り慣れた「ワンボックスカー」に。しずしずと降る雨は、彼のうれし涙か・・・。「やっぱり乗り慣れたクルマがいい」、「ありがとな」・・・そんな声が聞こえてくる気がしました。

■そしていよいよ「永遠の旅立ち」

荼毘にふされた彼は、もう私たちの目の前にはいません。が、しかしそれ以上に私のこころのなかには、しっかりとその存在感は残っています。

お芝居(瞼の母)のセリフを借りると「会いたくなったら、いつでも会える」、「じ〜と両の瞼を閉じると彼の元気な姿が浮かんでくるんだ・・・」と。

■エピローグ

折しも映画「おくりびと」がアカデミー賞受賞作として世の話題なっていますが、私にとっては彼の人生と旅立ちそのものが、それをはるかに凌ぐ真実のドラマ。別れの切なさというよりも、むしろ清々しい感動すら感じさせられました。そして新たな勇気も。

彼の温かい存在感を大切にし、今後の人生の糧としていきたいと思います。

感動を本当にありがとう・・・両の掌をあわせ、合掌。

写真は彼が商船学校のとき、練習船の実習生として乗船した帆船の「日本丸」。別名「海の貴婦人」とも呼ばれています。水彩画風にしてアップロードさせていただきました。


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2009年4月25日 (土)

友との永久の別れ〜第2章〜「うすむらさきの藤棚」を見て思うこと・・・。

親友との永遠の別れから早くも1週間が経とうとしています。「世の中の不条理」や「もののあわれ」・・・この現実を受けとめるとともに、日頃の喧噪のなかでくすぶっていた自分の心が次第に浄化され、感受性が普段より強くなっていることを自覚させられます。

先だってのことです。ある大学に仕事の打ち合わせで行ったとき、早くも咲いている「うすむらさきの藤棚」を発見し、懐かしい記憶が私の脳裏をよぎりました。

それは約40年前にヒットした「女学生」という流行歌(当時はヒットソングのことをこう呼びました)の歌詞、そしてそのメロディー。

昭和30年代の流行歌のなかに舟木一夫さんの『高校三年生』、三田明さんの『美しい十代』などとならび、学園ソングの人気曲のひとつに挙げられていたのが安達明さんの「女学生」。

薄紫の藤棚を目(ま)のあたりにして、あの甘酸っぱい歌詞を数十年ぶりに味わってみました。

■女学生の歌詞

うすむらさきの 藤棚の
下で歌った アベ・マリア
澄んだひとみが 美しく
なぜか 心に残ってる
君はやさしい 君はやさしい 女学生

セーラー服に 朝霧が
流れていった 丘の道
赤いカバーの ラケットを
そっと小脇に かかえてた
君は明るい 君は明るい 女学生

はるかな夢と あこがれを
友とふたりで 語った日
胸いっぱいの しあわせが
その横顔に 光ってた
君はステキな 君はステキな 女学生

■今の時代と比較して・・・。

残念ながら今の時代では「女学生」という言葉あまり使われない、またセーラー服姿の「女学生」も少なくなっているようです。

この歌詞を今の高校生に一度聞かせてみたいと思いますが・・・。「なに、これ」と、まず理解されないでしょうね・・・。

手紙を書き、そっと校内の下駄箱(靴箱ではない)に入れて、自分の想いを彼女に伝える・・・。あるいは彼女が乗る電車にあわせて、隣の車両に乗る・・・など。かつての少年・少女には「純真なこころ」と「あどけなさ」がありました。ひょっとして今でいうスートーカーまがいも、その当時は許された一つの意志通信手段だったかもしれません。

■「モノ溢れ」から「こころの豊かさ」の時代へ

パソコン、携帯、i-touch(アイタッチ)など通信手段ならなんでも有りの今の世の中。その反面失ってしまったのが、人から人へと自分の胸の内を直に伝える言語能力(ボキャブラリーの豊かさ)。

今こそ求められるのが「心の豊かさ」ではないのでしょうか。お金さえあれば「欲しいもの」がなんでも手に入るこの世の中。しかし一端望みが満たされないと突然キレてしまう・・・のが現代の世相。

「こころの豊かさ」はお金では買えません。目と耳そして心で感じることのできる「一行の美しい文章」、「一枚の美しい絵」、そして「一曲の美しい音楽」や「一輪の美しい花」など、感性を豊かにする「こころの充足」そして「瑞々しい体験」が求められる時代がやってきたと痛切に感じます。

■さあ「こころの旅」へでかけよう・・・。

百年に一度と云われる絶不況の今、これを幸いに転じて、それぞれが「こころの旅」にでかけたらどうでしょうか。遠くなくていい、近くにある図書館、美術館、博物館、植物園、音楽ホールなどなんでもいい・・・そこへ行くのにもクルマではなく地下鉄やバスで・・・或いは歩いて。

その「瑞々しい体験や感動」が「こころの豊かさ」を生みだしてゆくと思います。

■そして旨いお酒・・・。

「うすむらさきの藤棚」から始まって行き着くところは、やはり「旨い酒」。若い頃は、一滴も飲めなかったお酒が、今では明日への活力源。

数十年前の青春時代の思ひ出を肴に、一人で亡き友と語りながら、今宵もまず一献。

ブログの左上の「お気に召すまま・・・」に安達明さんが歌う「女学生」のサイトにリンクをはらさせていただきました。よろしかったらご視聴ください。

拙文を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。

■拙文の更なる蛇足

因みに「セーラー服」がNAVY(海軍)に採用された理由は、諸説ありますが、強風下の甲板上での作業において水兵間の伝達を「耳の後ろに襟を立て聞き取りやすくする」集音効果のためであるという説が有力のようです。


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2009年2月10日 (火)

私は貝になりたい 「BC級戦犯 加藤哲太郎 編」

先だって東京池袋のサンシャインシティで開催されたあるセミナーを受講してまいりました。そのとき私の頭の中をよぎったのは、以前に見たテレビドラマの中の「巣鴨プリズン跡地」を微かに示す石碑。

それは、平成19年に終戦記念番組として放映された「真実の手記・BC級戦犯 私は貝になりたい」のトップシーンに登場するあの石碑・・・。確かこの高層ビルの前にある小さな公園にあるはず・・・。

昨年末に劇場公開された映画のリメーク作品「私は貝になりたい」を見て更にその思いが、増してまいりました。「いつの日かあの石碑をこの目で見てみたい」と。

現地に到着し、それらしき公園であの「石碑」を探しました。公園の管理人さんにも尋ねてみました。「この公園に碑がありませんか?」、「なんの碑?」、「つまり、あの・・・」もどかしい会話をしているときふと目についたのが、ふたつの花筒。「あ!これだ」。

その石碑を目がけて小走りに駆けつけました。ひっそりとした佇まい木立の下にある碑の正面には「永久平和を願って」とだけしか記してなく、裏に廻ってってやっと「この地はかって巣鴨プリズン・・・」のくだりがまるで申し訳ないような銘板が収めてあった。

■加藤 哲太郎(かとう てつたろう)氏とは

(その壱)
日本初の『トルストイ全集』を刊行した父一夫と母小雪のもと、1917年(大正6年)2月21日に生を受け、1976年(昭和51年)7月29日没)。戦時中は、陸軍中尉・新潟の東京捕虜収容所第五分所長。

(その弐)
1940年、哲太郎は慶應義塾大学を卒業。その後1941年8月、徴兵検査を受け甲種合格。12月に召集され、中国大陸に出兵した。

1942年、内地に戻り、1944年には新潟の東京捕虜収容所第五分所長に就任。俘虜の死亡率が高く、赤十字社から視察の申し入れがあったため、俘虜を無事に越冬させるよう見込まれたのである。哲太郎は俘虜の待遇改善に取り組んだが、物資不足の状況では限界があった。そして運命の時がくる。1945年、二度の脱走を図った俘虜が銃剣で処刑される事件が起こった。

そして終戦の時を迎える。俘虜の一人に好意で逃亡を勧められ、姓名を変えて各地を転々とすることとなるが、その前に収容所の部下に対しては、罪は自分一人が引き受けるから、皆は助かれと言った。哲太郎は俘虜虐待と殺害の容疑で戦犯(BC級戦犯)に問われる身となった。

(その参)
逃亡生活は三年余に及ぶ。その間に戸塚福子と出会い、そして結婚した。運命は非常なもので、ついに1948年11月、東京・小平町の仮の住居で哲太郎は逮捕され、戦犯としてスガモプリズンに拘禁されることとなる。

1948年12月23日、長女・祈子が誕生したが、同日、横浜の第八軍事法廷において絞首刑の判決を受けた。家族は父の知人であった片山哲や、トルストイの三女でアメリカ合衆国に亡命していたトルスタヤなどに依頼し、再審請求の嘆願を行い、また独自に判決を不当とする証拠や証言を集めた。YWCA・YMCAの長老などからも、哲太郎助命嘆願運動への支援が寄せられた。

(その四)
1949年5月11日、哲太郎の妹である不二子はダグラス・マッカーサー元帥への直訴に及び、不二子はマッカーサーとの面会を許され、助命嘆願文を手渡した。5月16日、マッカーサー元帥により、異例の再審が認められた。その結果、加藤に好意的な米国人俘虜の証言が発見されたことも手伝い、6月24日、改めて終身刑の判決が下され、即日禁固三十年に減刑された。より正確には、書類審査による再審は加藤の他にも少なくなかったが、マッカーサー直々に原判決を破棄したのは、これが唯一の例でとなる。

(その伍)
獄中において、彼はそのエネルギーを執筆活動に注いだ。岩波書店の『世界』に密かに投稿し、10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」が掲載された。哲太郎は、再軍備や憲法改正への不満をそらすため、戦犯釈放と抱き合わせにしようとしていると吉田茂内閣を批判した。この内容に笹川良一らが怒り、筆者の犯人捜しを行った。しかし岩波書店は筆者を漏らさず、また服役中の戦犯に哲太郎の投稿への支持者も多かったため、やがて沙汰やみとなった。

約半世紀の隔たりの後、再びテレビドラマとして放映されたこの作品『私は貝になりたい・・・「BC級戦犯 加藤哲太郎編」』は、実録の戦争及び戦後体験をもとにしたドキュメンタリー。加藤哲太郎さんの本当の人生をリアルに追っていく。戦後さらなる生き地獄を体験し、後に作家として反戦活動を続けた男の、真実の生きざまが胸を打つ。その違いがドラマ全般を通して緊迫感がひしひしと伝わってくる。

■閑話休題
この作品では歌舞伎界のニューリーダー中村獅童さんの好演がひかる。また、生真面目な哲太郎さんを明るく、ぐいぐいと引っ張っていく飯島直子さんのキャスティングもいい。意外なところでは優香さんの役者としての「目力(ぢから)」にはびっくりした。ともかく近年のテレビドラマの中では秀逸な作品の一つと云っていいのではないか・・・。

■エピローグ
因みに加藤哲太郎氏は、私の父と同い年の生まれ。これも何か運命的なものを感じます。戦後60年、かの大戦そのものが風化されようとなっている今、一つの石碑が訴えている「永久平和を願って・・・」、この言葉の重みと有り難さを十分に噛みしめ、戦争で亡くなっていった多くの英霊に心から哀悼の意を表したいと思います。 合掌

写真はサンシャインビル前の東池袋中央公園にある慰霊碑です。

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2009年1月14日 (水)

「岡林信康」さんを数十年ぶりに見て聞いて思うこと・・・。

今年の1月2日、たまたまBSの番組表を見ていたところ、「懐かしのフォーク大全集」というタイトルが目に止まりました。
目玉は、かのフォークの神様「岡林信康さん」の出演。懐かしさがこみ上げるとともに、あの70年代安保闘争、そして約40年ほど前の熱気に満ち溢れた青春時代の想い出。約2時間弱の時間、久々にあの時代にタイムスリップしました・・・。

あの歌、この歌、それぞれの歌詞の一言一言に当時とは違う何かを感じ、懐かしいメロディーとともにじっくりと自分の人生も考えてみました・・・「今日まで、そして明日から」。

■涙が出るほど嬉しいメンバー・・・。

世代を超え愛されている名曲の数々をテーマに、あのフォークソングシンガーがNHKホールに大集合。40年前、ギター1本で日本中が歌い出したフォークブームが起こり、自らの想いを歌う和製フォークソングが生まれ、やがて、そのムーブメントから派生するように、オリジナル曲をバンドスタイルで演奏する「和製ロック」ミュージシャンが続々と登場。

「和製フォーク」は日本のポップカルチャーとなって、その後の現代音楽シーンへと続く礎を築くことになった。そのオリジナルシンガーの歌声、そしてフォークの名曲たちは今なお我々を魅了してやまない。

今回の番組の目玉は何と言っても、出演者の豪華さ。その中でも特にNHKの歌番組は15年振りの出演となり、集合もののテレビ音楽イベントには初出演の「フォークの神様」岡林信康。彼の、あの名曲・あのヒット曲の数々。

番組では、フォーク黎明期から全盛期、そしてこれからも歌い継がれて行く名曲をステージに当時のライブハウスを再現するなど、数々のユニークな演出によってNHKホールからライブ感いっぱいに紹介する。
(番組紹介より)

[出演]
 石川セリ、五つの赤い風船、因幡晃、上田正樹、大野真澄、
 岡林信康、尾崎亜美、海援隊、加川良、小室等、杉田二郎、
 ダ・カーポ、谷村新司、BORO、ムッシュかまやつ ほか

■岡林信康さんは同窓生・・・。

フォークの神様ともてはやされた「岡林信康」さんは、たまたま私の大学の同窓生。彼は敬虔なクリスチャンの牧師の家に生まれ、大学進学とともに当然のごとく神学部に進む。ここまでは順当な人生。その彼をして目覚めさせてしまったのがあの学生運動のうねり・・・。

人の一生は得てして、自分の思い通りにいかないのが常なのか・・・。まさに「諸行無常の響きあり」。一般的な古文の解釈で云うと「無常」は、「儚い」あるいは「虚しい」が正解かも知れません。

が、しかしじっくりとこの漢字を見ると「常ではない」、つまり世の中の「諸行無常」は「常ではない」という解釈にいたります。

彼はその才能故に時代の寵児として祭り上げられ、そして時代に翻弄された。時代が時代であれば、ひょっとして今頃、田舎の牧師さんとして賛美歌を歌っていたかも知れない・・・。それを許さなかったのが、あの時代。まさに「諸行無常」を感じます。

■「岡林信康」さんとは・・・。

え!、「岡林信康」て誰なの・・・という若い世代の方に、ちょっとだけ彼のさわりについてご紹介させていただきます。

岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 生まれ )は、滋賀県近江八幡市生まれのフォーク歌手。フォークの神様の愛称で知られる。実家は教会(メンタム製造メーカー近江兄弟社の創業者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズが創設した)。 現在は京都府亀岡市に住んでいる。

近江兄弟社中学、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。高石ともやの影響でギターを始める。 自らのキリスト教への信仰に疑問を感じた事が、フォークに目覚めたきっかけだったとも言われている。

1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした『山谷ブルース』でビクターよりレコードデビュー。 翌年までに、『友よ』『手紙』『チューリップのアップリケ』『くそくらえ節』『がいこつの歌』など、名作・問題作を発表。 その内容から、多くの曲が放送禁止となる。

一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより、翌年五月に一時蒸発。

1970年になると、ボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。 『それで自由になったのかい』『私たちの望むものは』『自由への長い旅』などの作品を発表するが、1971年の「自作自演コンサート 狂い咲き」及び、「第三回中津川フォークジャンボリー」を最後に、表舞台から再び姿を消す。

1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。 ロック路線のアルバム『金色のライオン』『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。一部で高い評価を得るものの、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンが多く、結局、その意識は京都府丹波地方の農村生活の中で沈黙することへ向かった。

また、この頃より、弾き語りスタイルで演奏することは少なくなり、初期の曲も封印するようになる。
二年間の農村生活の中で演歌に開眼。 美空ひばりらとの交流を通し、美空ひばりに『月の夜汽車』などの作品を提供。

以後紆余曲折を経て、独自のロック『エンヤトット』を思案。 そのなかで韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。

「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る『エンヤトット路線』ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野音ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。現在は「エンヤトット」を、自らの苗字とかけた「御歌囃子(おかばやし)」と新たに名づけ、全国でライブ活動を展開中。

以上が岡林信康の半生とディスコグラフィーです。『出典:ウィキペディア(Wikipedia)』より。

■エピローグ・・・番組を見終わって。

仕事に追われた数十年の実生活のなかで心のなかに眠っていた「あの熱気と興奮」をこの番組で思い出しました。「たかが人生、されど人生」、新年の始まりから稲妻のようなショックを受けました。

岡林信康さんは、今や「フォークの神様」ではなく、我らと同じ「世の酸いも甘いもかぎ分けた」熟年世代のおじさん。

イントロが始まり、歌い始めたとおもうと、突然の演奏中止。何事があったのかと思ったら「いまのじゃ、ノリが足りない」、「普通ぼくがステージ立つだけで、押し寄せる何かがある・・・」「もう一度イントロからやり直し」「NHKホールなんてめったにでないのだから・・・」など、思いっきり観衆を自分の世界に引きずり込んでいく。

いやはやこの感動。そうだあの時代こう生きた・・・そして今の自分がある。ところが我が身の表現力の乏しさ、言葉の拙さが歯がゆくてなりません。これからの生き様において、この番組は私にとって力強いエールとなりました。

P.S
ブログ左上の「お気に召すまま」岡林信康さんの「山野ブルース」「チューリップのアップリケ」「自由への長い旅」にリンクをはらさせていただきました。よろしかったらクリックして、ご覧になってください。

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2009年1月 1日 (木)

「初日の出」の感動と「牛の歩み」

元旦の朝、我が家のベランダから新年のご来光を待ちました。午前7時01分、東の空が白み始め、そして黄金色に輝く素晴らしい初日の出のライブショウが始まりました。

■ご来光は五度目・・・

人生最初に見たご来光は、今を去ること30年数年前、加賀・白山の頂上。続いて富士山の五合目、名古屋港の初日の出クルーズ、そして昨年に続き我が家の十二階のベランダでご来光を見るのが、ひー・ふー・みー・よーと数えて五回目。それぞれ違う懐かしい思い出と感動があります。

いずれも「寒い・・・でも早起きした甲斐がある」が共通根。なかでも年の初めのご来光は格別。登る朝暘をこの肉眼で見ると身と心が引きしまります。言葉には表しがたいこの感慨、思わず両の手を合わせ合掌・・・。

■さて、今年はどんな年に・・・

原油の高騰、百年に一度と云われる世界的な金融危機など波瀾万丈の昨年でしたが、先行きまったく不透明な昨今の世相。今年はいったいどんな年になるのでしょうか・・・。

「勝ち組」、「負け組」という言葉が、メディアを賑わしており、国内では派遣労働者の雇用打ち切りなどが深刻な社会問題化しております。

元はといえば、今回の世界的な金融危機は米国のサブプライムローンの破綻に端を発した謂わば人為的な大災害。

「カネがカネを生む」という、一般人には到底理解できない「金融システム」を作ったスーパーエリートたちの「勝ち組」が世界を混乱に陥れたのではないでしょうか・・・。

巷間でいう「勝ち組」、「負け組」という言葉をあえて使うと、かって世界を席巻し、我が世の春を勝ち誇った彼らこそが真の「負け組」ではないかと・・・。

■人生、牛の歩みが一番・・・

世の中に山積するあらゆる問題はすべて「勝ち組」の所業に起因するのではないか・・・と怒ってみても所詮、一市井人としては日々是丹精、今年の干支のように「牛の歩み」をくりかえすしかありませんね。

ここで、いつも応援している「島津亜矢さん」の持ち歌
「大器晩成」のフレーズを思い出しました。

枝を張るのは まだ早い
いまはしっかり 根をのばせ
大器晩成 あしたにかける
夢と希望の 大空を
雲が流れる ゆうゆうと

まぐれ当たりも あるけれど
それを狙えば 遠まわり
大器晩成 地道(じみち)な努力
ものをいう日が くるまでは
牛の歩みを くりかえせ

笑うときには 豪快に
嘘も真実(まこと)の 一里塚
大器晩成 ただまっしぐら
若く凛々(りり)しい 足跡を
刻みつけよう この大地

■エピローグ

新年第一号のブログは、初日の出の感動で始まり島津亜矢さんの「大器晩成」で結びとなりました。年一年と歳は重ねてまいりますが、年ごとに気持ちは逆に若く保っていきたいと思う次第でございます。

最後まで拙文をご覧頂き、誠にありがとうございました。

■P.S. 掲載の画像について

「ご来光」の3カット。お目出度い画像をとくとご覧下さい。

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2008年12月12日 (金)

「ブログ徒然草」10000ヒット間近!ホワイトクリスマス

2008年も残りあとわずか、クリスマスも間近となってまいりました。・・・ことしもいろいろありました。世相のあまりの変化に、思い出そうにも話題がありすぎてどれを私のベストテンにあげていいのか迷ってしまいます。

さて、昨年の3月にはじめてブログをアップロードさせていただいて、いよいよ10000ヒットが間近となりました。幸運?な10000人目の方はどなたになるのでしょうか。

■お芝居、写真、音楽、映画、お酒、そして旅などを綴った謂わば「寄せ鍋」みたいなブログをよぐぞこれだけ多くの方々にご覧いただいたと思うとなんだか嬉しくなってしまいます。

ライブ直後の「ハイテンション」のなかで書いたもの、あるいは打ちひしがれた「ローテンション」の心のなかで綴ったブログなど、今ひとつひとつを改めて読み直すとこの1年半余りの私自身の心の移ろいが手にとるように感じとれます。

「ブログ徒然草」・・・よろしかったらこれからも拙い「日記帳」をご愛読いただければ幸いに存じます。

兼好法師の又従兄弟の末裔、そして縁もゆかりもない平成の弟子より。

■ブログ左上の「お気に召すまま」に懐かしの「ボビーソロ」が歌う「ホワイトクリスマス」にリンクをはらさせていただきました。クリックして、懐かしの歌声をお聞きください。

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2008年10月11日 (土)

「湯島の白梅」をめぐる再発見・・・。

7月に一度アップロードさせていただいた湯島及び湯島の白梅に関して、その後どうしても追補させていただきたい思いにかられましたので、ふたたびブログの筆をとらさせていただきました。

現地を再び訪れ、名歌の十二行の歌詞を改めてじっくり味わってみると再発見のいくつかがあり、そして自分なりの新たな解釈を加えてみました。

1 湯島通れば 想い出す
  お蔦主税の 心意気
  知るや白梅 玉垣に
  残る二人の 影法師

2 忘れられよか 筒井筒
  岸の柳の 縁結び
  堅い契りを 義理ゆえに
  水に流すも 江戸育ち

3 青い瓦斯燈 境内を
  出れば本郷 切り通し
  あかぬ別れの 中空に
  鐘は墨絵の 上野山

■「筒井筒」と伊勢物語との関連

「筒井筒」という言葉が気になり、三省堂の国語辞典で調べると「丸く掘った井戸の筒状の外枠」とありました。しかしこの一言は言外に奥深い意味があり、更に探索すると出典は伊勢物語の二十三段にある「互いに惹かれていた幼馴染みの男女が結ばれるまでの相聞歌」にいたることが新たな発見。

男より
筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、
くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

■そして唐突ですが、吉田拓郎の歌詞との関連

ここで新たな私なりの解釈。ふと思い出したのが、吉田拓郎の「結婚しようよ」の歌詞の冒頭。

僕の髪が肩まで伸びて
君と同じになったら
約束通り 町の教会で
結婚しようよ・・・

このくだりはまさに伊勢物語の「筒井筒」の世界。日本人の心は平安の古から千年以上たっても発想の原点は同じなのだなと、一人得心いたしました。あるいは吉田拓郎さんの心の奥底に伊勢物語のイメージがあったのかも知れません。

■「切り通し」と石川啄木の関連

次に湯島の白梅の歌の中に「切り通し」という言葉があります。「切り通し」とは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道の事。トンネル掘削技術が発達していなかった明治時代以前には、切り立った地形の難所に道路を切り開く手段として広く用いられた工法でそれらの地域を「切り通し」と呼んだとか。

また, かつて本郷三丁目交差点近くの「新井理髪店」の二階に間借りしていた石川啄木が, 朝日新聞社の夜勤の帰り, 毎日通った坂でもあります。
      
二晩おきに 夜の一時頃に 切通の坂を 上りしも 勤めなればかな  石川 啄木

夜勤の晩には、湯島神社の石垣沿いの暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上っていったことであろう。・・・当時の啄木の生活状況がこの歌をとおして、ひしひしと伝わってくる切ない歌の内容だ。この歌碑は坂の途中に「自筆のノートの筆跡」をもとにひっそりと佇んでいる。

■「鐘は墨絵の上野山」の解釈

「別れろ切れろは芸者のときに言う言葉」・・・つらい別れのあと、ガス燈のある境内を出て右に曲がると、そこは切り通し坂。不本意にも別れたお蔦の切ない気持ちを思うと足取りも重い。坂道から見える上野の山(今はビルやマンションに隠れて見えない上野山も当時は、坂の途中から十分に見渡せたと推察される。)が、夕闇の中に辛く哀しい墨絵の様に見える。そして寛永寺の鐘が物悲しく響く。こんな情景ではなかっただろうか・・・。

啄木にとってもお蔦・主税にとっても切り通し坂と上野の山は切ない情景・・・身がつまる思いがします。

■もし近松門左衛門がシナリオを書くなら

上野・寛永寺の鐘は、江戸の時代には幕府公認の「時の鐘」。時代が変わった明治でも、主税にとっては、江戸っ子ゆえの「けじめの鐘」に聞こえたのかも知れません。

もしもの仮定ですが、「婦系図」が大阪を舞台にし、しかも作者が泉鏡花ではなく、近松門左衛門だったとしたら・・・恩師の酒井に「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と決断を迫られたとしても主税は、当然のごとく心底愛するお蔦とともに自分たちの誠の愛をつらぬき、そして最後は道行きにいたったのかも知れません。

近松門左衛門が書くシナリオは「湯島境内」以降どのように展開していくのか・・・。手に手をとって生まれ故郷に向かいそして両親と再会する・・・その後やいかに・・・。

江戸の「粋な文化」か浪速の「人情の文化」か、地域文化に立脚した文学を比較して考えてみるのも興味深いものですね。

■エピローグ

自分なりの勝手な解釈を加え、ブログの結びどころが分からなくなってしまいました。現地を訪れてはじめて、この名作の奥の深さが分かりました。機会があれば、また湯島とその周辺をじっくりと散策したいと思っています。

拙文を最後までご覧いただき誠にありがとうございました。

P.S.
ブログの左上の「お気に召すまま・・・」に小畑実さんが歌う「湯島の白梅」のサイトにリンクをはらさせていただいております。よろしかったらクリックしてみてください。

写真は、上から湯島天神にいたる「女坂」と切通坂にある「啄木の歌碑」です。

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2008年8月10日 (日)

奥根尾で鮎釣りを友と楽しむ

8月の上旬、芝居ファン仲間の方のお誘いで鮎釣りを楽しんでまいりました。

場所は岐阜県の本巣にある根尾川の上流。あの有名な薄墨桜のある樽見の更に奥。典型的な「宵っ張りの朝寝」の私としては、その日はいささか気合いを入れ午前3時前の起床。
友の家に寄ってから一路目指す奥根尾に向かいました。

■涼しいはず、外の気温は20℃

目的地着は5時45分。クルマを降りるとひんやりとした「グリーンシャワー」の洗礼。暫くすると、気持ちいい、涼しいを通り越しむしろ「寒い」という体感温度。
これも毎日、アスファルトジャングルの灼熱の中で暮らす環境に慣れてしまった恐ろしさ・・・人間の肉体は既に「地球温暖化現象」に対応した体になってしまったのか・・・と複雑な思いにかられました。

今回は、鮎釣りがテーマ、地球温暖化議論は別の機会にして、本題に戻ります。

■まずは鮎釣りの身支度に・・・

「釣り用のタイツ」「ベルト」「足袋」などを身につけていくうちに、見かけだけはプロの釣り師風。他に「偏光グラスの眼鏡」「玉網」「囮缶」「曳き船」など。だんだんと鮎釣りのムードは高まってまいりました。

肝心の竿は9メートルのロッド竿。そして鮎釣りの仕掛けと囮鮎。
以上が揃うと準備万端。さあよく釣れそうな好ポイントをもとめ浅瀬を渡り対岸へ移りました。

■鮎釣りのなかでも最も盛んなものは「友釣り」・・・

鮎は成魚になると川の石についた藻を口ではがして食べるようになる。しかも新鮮でな藻でないと口にしないという。鮎はその気に入った藻が張り付いた石を中心に約1m四方の縄張りを作り、そこに外部から侵入するものがあると、猛然と襲いかかり、侵入者を追い出そうとする。

友釣りはその鮎の習性を利用した漁法。囮に生きた鮎を使い、石に張り付いた藻の近くで鮎にそっと近づけてやると囮を追い出そうとして、突っかかってくる。そして囮にセットしてある掛け鈎に引っかかる。ここで活きてくるのが「偏光グラスの眼鏡」。何故かというと川面を通して石の位置ががよく見えるから。

■友釣りは廻る循環ゲーム・・・

鮎釣りは、出来るだけ早く囮を交換し、釣ったばかりの鮎を今度は囮に使います。元気が良い囮の鮎は動きも速い、そしてその囮で次の鮎を釣る。どんどんと釣った鮎を囮に換え、次の、またその次の鮎を釣っていく、まるで循環のゲームのように・・・。

文章で綴ると簡単ですが、実際の鮎釣りとなるとこれが、なかなかどうして微妙なタイミング。しかし今回は、運良く釣り糸を垂れてから約5分ほどで、最初の1尾目がかかってくれました。

■時間とともに気温もぐんぐんと上昇、そして強い紫外線

ふと気がつくと、指先から七部袖にまくった腕のあたりまで、真っ赤に焼けてまいりました。山の中とはいえ、やはり太陽光のエネルギーは強い。
原油高に発した世界的な経済不安と国内では値上げラッシュで先行き不透明な世相・・・釣り糸を垂れながらふと思いました。この「太陽光エネルギー」をなんとか「友釣りの循環ゲーム」のように資源として活用できないものかと・・・

■一尾 約数千円。天然ものの鮎は美味しい!

時計の針も3時を廻ったので本日の鮎釣りは、これにて打ち上げ。
漁獲高はしめて数尾、往復の高速代とお弁当そして準備の諸経費を入れると1尾あたり約数千円、というとても高価な鮎となりました。
が、しかし多少の疲労感は残ったものの、心の中はかなりリフレッシュできました。

家路につき、我が家に辿り着いたのは午後6時。鮮度のよいうちにと思い、早速近所の方にお裾分け。そして我が家でも塩焼きにしていただきました。
やはり「天然ものの鮎」は美味しい!

■エピローグ

いつもながら拙歌をひとつ。

奥根尾の 川の瀬音に 抱かれて 友と楽しむ 鮎釣りのとき

拙文を最後までご覧いただき、誠に有り難うございました。

写真は根尾川での鮎釣り風景です。

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2008年7月27日 (日)

念願の「湯島天神」へ行って参りました!

7月のうだるような暑い日、赤坂で所用を済ませたあと、東京メトロの千代田線で次の場所へ移動する際に「湯島」の駅名が目に飛び込んでまいりました。少々時間もあることだし「えい、ままよ」とばかりに途中下車し、「湯島天神」へ。駅から歩くこと約2分、意外と近いところに「念願の湯島」がありました。

■泉鏡花の原作「婦系図」そして「湯島の白梅」とは・・・

新派、映画などでたびたび演じられる「湯島の白梅」は、泉鏡花の原作『婦系図』の一場面・・・「湯島の境内」。あまりにも有名なシーンの為、この場面だけが「婦系図」の原作のようになってしまっています。

『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。・・・私にゃ死ねと云って下さい。』・・・あの有名なお蔦の台詞です。原作『婦系図』では、「湯島の境内」の場面のあと、その題名の通り「婦人の系図」を巡り複雑な展開をみせ、悲劇的な結末で話が結ばれるますが、やはり見せ場は。この「湯島の境内」とあの台詞。

実生活では、お蔦のモデルは後の泉鏡花夫人、神楽坂芸者の桃太郎、早瀬主税は自分自身、師である酒井俊蔵は、尾崎紅葉のようです。

■「湯島の白梅」=「湯島の境内」は・・・

映画では「市川雷蔵」さん主演の大映作品、演劇では大のご贔屓「三河家劇団」さんのお芝居で「湯島の白梅」を観て、その舞台となった「湯島天神」に機会があれば、一度いってみたいとかねてから思っていました。それ故に映画、お芝居、読書を通して、自分なりのイメージした「湯島の境内」がありました。

湯島天神には、三つの坂があるという。「男坂」「女坂」「夫婦坂」、その一つ「男坂」から参拝させていただきました。階段を上りきると念願の「湯島天神」が私の目の前に現れました。思ったより、こぢんまりしたお社と境内でしたが、真夏の太陽の光を燦々とうけ、私には眩いばかりの存在感に映りました。

それもそのはず、現在のお社は、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営されたものとか。ここで主税とお蔦は寄り添うに歩いたのかと一歩一歩、境内をくまなく踏みしめて進むと「新派碑」「瓦斯燈」「筆塚(泉鏡花)」などがあり「湯島詣で」のムードは高まる一方。お社では、しっかりと参拝させていただきました。

■戯曲とともに慕われる「湯島の白梅」の歌

七五調で綴られた詩は二人の切ない心情をよく現し、哀愁を帯びたメロディーにぴったり。この曲が作られたのは、昭和十七年、以降連綿として現在まで、お芝居とともに歌い継がれています。

作詩 佐伯孝夫   作曲  清水保雄
1 湯島通れば 想い出す
  お蔦主税の 心意気
  知るや白梅 玉垣に
  残る二人の 影法師

2 忘れられよか 筒井筒
  岸の柳の 縁結び
  堅い契りを 義理ゆえに
  水に流すも 江戸育ち

3 青い瓦斯燈 境内を
  出れば本郷 切り通し
  あかぬ別れの 中空に
  鐘は墨絵の 上野山

■「女坂」「夫婦坂」・・・

映画の1シーンにある、主税が思いあぐねて「お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。」と切り出したのはどこだろうか、私の勝手な推測では「女坂」にいたる境内のあたりではなかろうかと?

約30分ほどの短い滞在でしたが、そんな思いにしたりながら湯島天神を後にしました。今度こそ、白梅の咲く季節に再び湯島に参りたいと思います。

拙文を最後までご覧いただき、ありがとうございました。

ブログの左上の「お気に召すまま・・・」に小畑実さんが歌う「湯島の白梅」のサイトにリンクをはらさせていただきました。

写真は、左から「男坂」「新派碑」「お社」です。

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2008年7月 6日 (日)

今年も咲く「父のゼラニウム」

早いもので父が亡くなって今年で7年目。しかしこの季節になると、今でも父の存在を強く意識させられるものが毎年確実に私の目の前に現れます。

それは、フラワーポットに咲く真っ赤な色の「ゼラニウム」。花や草木をこよなく愛した父は、狭い庭一杯にたくさんの花鉢を残していきました。あまりの数のため、近くの人にお分けするなどしましたが、そのうちのいくつかを我が家のフラワーポットに移し替えました。

■天国の父と交わす会話・・・

残念ながら「花無精?」の私ゆえ、大半を枯らしてしまいましたが、この「ゼラニウム」だけは、とても生命力が強く、毎年元気に赤い花を咲かせます。近くによってみると「おい、また来たぞ」と「元気にやってるか・・・」と父の声が聞こえてくる気がします。思わず「大丈夫だよ、何とかやっているから」と返事がしたくなります。

■人生のお師匠さん・・・父から受け継いだもの             

父が残してくれたものは、ゼラニウムだけではありません。父と母から頂いたこの体。おかげさまで、この歳になるまで大病もなく、生きてくることができました。本当に何にも代えがたいお宝を授けていただきました。

父は一市井人として、84歳の人生を全ういたしました。座右の銘は「夢を持つ、そして精進する」
まさにこの言葉通りでの人生でした。

人生山あり谷ありの連続、雨露しのぐ宿りがあり、生活するだけのお金があれば、それで十分。人生の楽しみ方は、いくらでもあるよ。
そしていつでも夢を持つ・・・。

「夢」といってもそんな大層なものでなくていい、ささやかな「夢」を実現させるために日々精進する。その姿勢が大切なんだよ。「小さな努力の積み重ねが、知らない間に自分の力になるんだよ」と教えてもらった気がいたします。

■句作に没頭した晩年の父

仕事を終えた父の余生は好きだった「草花や庭木いじり」「バードウオッチング」「吟行を兼ねた小旅行」など日頃からできなかった趣味の世界で、父らしく「精進」を楽しんでいました。なかでも晩年もっとも没頭したものは「俳句」でした。「句作」に熱中するあまりに、寝る間を惜しむくらい・・・。そして、あちこちの俳句誌に投稿し、自分の句が入選した時の笑顔が今でも思い浮かんでまいります。


妻の髪 風にながれる 夏きたる
明るさは 古里のもの 時雨れても
口だけは 強気の老いも 暑に勝てず
つんつんと 伸びて青葱 触れあわず
雷鳴を 遠く聞きつつ 旅支度
梅漬けし 壺をしばらく だいてをり
病みぬける 区切りとなりし 干しふとん

あらためて一句一句を読みかえしてみると父の姿が瞼に浮かんでまいります。

■閑話休題

父の思い出に浸るうちに鶴田浩二さんの名セリフを思い出しました。

今の世の中「右を向いても左を見ても、筋の通らぬことばかり・・・」
「心のない獣ごっこがまかり通る世の中」になってしまいました。

「何だかんだと云いながらも、こういう自分も古い人間なんでござんしょうかね・・・」
「古い奴こそ 新しいものを欲しがるものでございます・・・」

三十数年前の歌詞ですが、父の言葉と重なる何かを感じます。

■エピローグ

ゼラニウムの花のお陰さまで、ここ1ケ月ほど更新させていなかったブログの筆をとることができました。今回のブログは、私というよりも、父と「二人羽織」で書かさせていただいたような気がいたします。

父の座右の銘を心の糧として、私も日々精進し、新しいことにも挑んで参りたいと思います。

拙文を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
蛇足に拙句をひとつ・・・

「犬蓼が こぼれるほどに 笑みかける」

P.S.
写真は文中の「ゼラニウム」と父の直筆の「座右の銘」です。

Saikaisss

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2008年3月15日 (土)

「母の思ひ出」が浮かぶ「吾亦紅」・・・   そして「山頭火」

最近よく聴くCDアルバムは杉本眞人さんの「Bar Starlight」。全編に流れる渋いメロディーラインもいいが、歌詞も素晴らしい。昨年の紅白で唄った「吾亦紅」だけが静かなブームを呼んでいますが、どの曲も渋くていい曲ばかり。「ブルース」+「フォーク」+「演歌」、切々と唄う詞と曲は、団塊の同世代の私にとって、とても胸を打つものがあります。まさに彼しか描けない独特の世界。

他にも「黄昏シネマ」「新宿銀次」など素晴らしい曲がいっぱい。甘酸っぱい青春を思い起こさせてくれる素晴らしいアルバムです。

■私にとって・・・「母の思ひ出」

彼のアルバムで強く意識させられたのは「母」という言葉。一体彼にとって「母=お袋さん」とはどんな存在だったのか・・・今回は「母」という共通根でブログの筆をとりました。

私の母が亡くなったのは、昭和26年11月20日。今から約55年も前のこと。おぼろげな記憶のなかにあるのは、土間ごしに見える母の布団に臥した姿・・・その後暫くして、母は29歳の若さでこの世を去りました。幼子の私を残して意識が薄れていく・・・無念・断腸・・・どんなにつらかったでしょう。この歳になってひしひしとした母の思いが私の胸に伝わってきます。

このアルバムを聴いて初めて「命のリレー」という意味が分かりました。父母から授かった命を「母の思い残した分だけ」頑張って生きてやろう!そんな気持ちを強く抱くようになりました。

■山頭火にとって・・・「母の思ひ出」

『うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする』

もうひとつの共通根は「山頭火の世界」。彼の生き様もまさに母への思いを引きずった人生だったと思います。

人が成長していく過程のなかで、父や母、とりわけ母親の愛情が重要であることはいうまでもありません。が、しかし幼い頃に母が夭折した山頭火は、心の痛みを生涯引きずり、自分でも愛情豊かな家庭を築けなかった。そしてそのまま一生を放浪することになってしまう。別れた妻から届いた小包の中に母の位牌があった。それからは、あてもない放浪の旅のなかでも母の姿を追い求めていく。そんななかで生まれたのがこの名句。行乞の身には満足なお供えはない。やっとみつけたうどんをゆがいて位牌の前に置く。常識的な生き方が出来なかった山頭火にとっても「母」は、唯一心の安まる特別な存在であったのかが推察されます。

■エピローグ

なんだか、今回のブログはしんみりしたテーマになってしまいましたが、それだけ私にとってインパクトが強かったのが、このアルバム「Bar Starlight」・・・いままで人生を粗末に生きた自分を恥じるとともにこれからは、お袋が「やり残した人生」を精一杯生きていこう・・・杉本眞人さんの歌声がそんな勇気を与えてくれました。・・・「ふるさと お袋 ゆるしてくんな」。

拙文を最後までご覧頂き、誠にありがとうございました。今宵も人生に乾杯!・・・とかいってもう一献傾けて、このブログを締めくくらせていただきます。 合掌

Sugimotoss

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2008年2月23日 (土)

「熱燗」と「炙ったいか」そして「山頭火」

さすがにこの時期になると寒さもピーク。互いに交わす言葉も「寒いですね・・・」、「寒うおます」と、つい口にでてしまいます。
小生の最近のささやかな楽しみは、「熱燗」と肴の「炙ったいか」。

日頃「お酒は常温」と粋がって毎日欠かさず晩酌をやっていますが、この時期だけはやはり「熱燗」が一番。最初の一口は、まさに五臓六腑に染み渡る「旨い」の一言。
今宵は、ひとり一献を傾けながら「酒」についての思いを語ってみたいと筆をとりました。

■酒の肴は、「松前産のするめ」がお薦め

するめいかは「夏いか」が一番。中でも7月の上旬から中旬にかけての松前産は、肉厚で柔らかく、甘味を多く含んでいるので、国内のするめでは最高級品のひとつと云われています。
理由は日本海で冬に生まれ対馬暖流にのり、梅雨の時期に大きく成長する。そして、海面が雨に打たれ、そこにプランクトンが湧いて餌となるとの蘊蓄がありますが、それも定かではありませんが、ともかく松前で水揚げされ、天日干しされた「夏いかのするめ」は最高。軽く炙るとなお旨い。これが「松前産のするめ」をお薦めする由縁です。

■八代亜紀の「舟唄」がさそう陶酔の世界

「酒とするめ」とくると、やはりこの「舟唄」。その絶妙なコンビネーションをしみじみと八代亜紀さんが歌い上げでいます。そういえばこの歌詞も先だって亡くなった作詞家「阿久悠」さんの数ある作品の中のひとつ。
まさに「噛めば噛むほど」、「聞けば聞くほど」味わいがます「不朽の名曲」ですね。

八代亜紀・・・「舟唄」

作詞 阿久 悠
作曲 浜 圭介

お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった イカでいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり ともりゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
思い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌い出すのさ 舟唄を

沖の鴎に 深酒させてヨ
いとしあの娘と朝寝する
ダンチョネ

店には飾りがないがいい
窓から港が 見えりゃいい
はやりの歌ななくていい
ときどき無敵が 鳴ればいい
ほろほろ飲めば ほろほろと
心がすすり ないている

ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと
未練みれんが胸に 舞い戻る
夜ふけてさびしく なったなら
歌い出すのさ 舟唄を

■酒をこよなく愛した「山頭火」

閑話休題。ほろ酔いついでに、放浪の俳人「山頭火」についても一言触れてみたいと思います。自由律の名作を数多くこの世に残した「種田山頭火」は酒をこよなく愛し、また酒があったからこそ多くの名句が生まれたといっても過言ではありません。

「ほろほろ酔うて 木の葉ふる」

山頭火は、酒に酔っていく様を次のように表現しています。
「まず、ほろほろ、次にふらふら、ぐでぐで、ごろごろ、そしてぼろぼろ、どろどろ」というように。まさに酔うほどに、といった表現ですが、山頭火のいう「ほろほろ」とは、どのぐらいの量だったのでしょうか。また最後の「どろどろ」とは、いかばかりか。「一升」?いやそれ以上・・・

「酒をたべてゐる 山は枯れてゐる」

酒好きでそして酒に生かされ、また酒に飲まれているような山頭火にとって夕餉の一杯は、大切なひととき。ひもじい思いをしても、酒の一杯を傾けられる時間があるからこそ行乞にむかう。そして念仏のお布施にいただく少々の金子でお酒を得る。

それをたまらなく嬉しく感じながら、ひとりぼっちの侘びしい夕餉が始まる。肴なんてものは無くてもよく、ゆっくりあおっては、噛みしめるように味わいつつ酒を楽しみむ。山頭火の一日のささやかであり、至福のひとときだった。が、しかし、このひとときの楽しみが終わってしまえば、薄い布団で眠れぬ夜を過ごす。また明日は、あの枯れた山を歩いていかねばならない。そう思うと、酒の味も少しほろ苦く思えてくる・・・。
亡くなったお袋のことも頭の中をよぎる・・・。

「うしろすがたの しぐれてゆくか」

山頭火にとっては、お酒は「飲むもの」ではなく、味わって噛みながら一口づつ「食べるもの」だったのでしょう。

■エピローグ

ほろ酔い加減で、ぐだぐだと駄文を連ねてしまいました。今回のブログを最後までご覧頂いた方には、誠に申し訳なく、伏してお礼申し上げる次第でございます。小生も「この世に生かされていることに感謝して」・・・てな理由をつけ、今宵ももう一杯。 合掌

■P.S.

ブログのトップ左上(お気に召すまま・・・)に、「八代亜紀」さんが歌う「舟歌」にリンクをはらさせていただきました。よろしかったらクリックしてみて下さい。

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2008年1月 2日 (水)

初詣の「大須観音」で思うこと

■有朋自遠方来不亦楽乎

友遠方より来たる また楽しからずや (孔子の言葉)

■旧友たちと正月の恒例行事

私を含め仕事、人生の生き様とも少々不器用な輩の集まりですが・・・なぜか気があい、年に二度ほど顔を合わせ、旧交を温めています。今年のお正月は、「大須」に集まりました。観音さまにお参りしたあとは、近くのお店で「一献を傾ける」。いつ来ても訪れる人を優しく包み込んでくれる、これが「大須」の魅力ではないでしょうか。

互いの近況報告など話し合ううちに、ついついお酒のピッチも上がりがち。ほろ酔い気分のあとは、大須演芸場、中華街、コメ兵、コンピュータパーツのアメ横など「演芸、パソコン、カメラ大好き」の私には「何でも有りの大須」は、一日いても飽きることのない街です。

■大須観音〜父との思いで

もう一つ私にとって「大須」という街は、言葉の響きだけで特別の思いが浮かんできます。生前の父がこよなく愛した街だったから。謹厳実直だった父でしたが、私をよく「大須の観音さま」に連れて行ってくれました。お参りのあとは、いつもきまって「お好み焼き屋さん」で熱燗を一杯のむ、それがささやかな楽しみだったかも知れません。

そして「古道具屋さん」「帽子屋さん」「古本屋さん」など、お気に入りのお店に立ち寄る・・・いかにも父らしい計ったような行動でしたが、それなりに大須を楽しんでいたようです。いくつかのお店が今で残っています。その店の前にふと佇むと、元気だった頃の父の姿が瞼の裏に蘇ってきて、思わず目頭がじぃ〜んと熱くなってまいります。
どうやら大須の楽しみ方を教えてくれたのは、父だったような気がいたします・・・

■大須の歴史 「清洲越し」から始まる四百年の変遷

そこで、思いでいっぱい、そして自分が今でもこよなく愛する「大須」について、文献を調べその歴史を紐といてみました。

文献によると、大須のルーツは、慶長15年(1610)徳川家康の命による「清洲越し」に始まるとか。名古屋築城のため、武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋などあらゆるものを清洲から名古屋に移すという大事業。大須の歴史はその「清洲越し」から始まったという。街自体が形成された後は、大須観音、万松寺などの境内では連日 芝居、相撲などの興行が行われ、大賑わいであったと記されています。現在では、その繁栄ぶりを知る由もありませんが、たぶん年中お正月のような雰囲気ではなかったかと推察されます。

戦前まで名古屋一といわれた盛り場「大須」も明治の大須観音の大火や、空襲による戦災、市電の撤廃による交通事情の変化により、一時は「陸の孤島」とも呼ばれる時期もあり、また栄や駅前地下街の隆盛におされて青息吐息の状態となりました。しかしこの窮地を救ったのが、若者文化のパワー。ハード的にはパソコンの「アメ横」、文化的には「七つ寺共同スタジオ」などの芸術活動が若者の共感をよび、再び若者を中心として人が集まるようになったという。

また幸か不幸か「陸の孤島」と揶揄された大須は、それ故に今にいたるまで下町情緒を残すことができ、どこの都市にもあるコンクリートジャングル化を避けらたとも云えます。昨今では、これに外国人就労者たちの集まる街となり、老若男女、喋る言葉、皮膚の色いろいろ、言葉にたとえようのない、まさに「多国籍な寄せ鍋」的な文化と味覚が醸成された不思議な街となっています。ま、ともかく、人が集まるということは、それだけ街に魅力があるということで、派手さはないが、いかにも名古屋らしい一種独特な繁華街が形成されているといっても過言ではありません。

■エクステンション

不死鳥のごとく蘇り、更なる発展を遂げようとしている大須は、前項にも示したとおり、いかにも名古屋人気質を凝縮した街といえます。質実剛健(質素+実用的)の気風は、外国人にも自然と受け入れられ、それがまた新たな文化を生み出していく・・・時代の移ろいに柔軟に変革していく大須を今後とも応援して参りたいと思っています。

最後まで拙文をご覧頂き、誠にありがとうございました。

そこで拙歌をひとつ
「観音の お慈悲で集う 朋友と 語らうひととき いと楽しかな」

■P.S. 掲載の画像について

「大須観音(1)」「演芸場(2)」の3カットです。ご覧下さい。

Kannonns
Enngeijyou1s
Engeijyou2s

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2008年元旦「ご来光」と「三番叟」

初日の出の感動を一部の方にメールでお伝えしましたが、目出度ついでに観た「三番叟」に関してブログに書かさせていただきました。

■神のお告げか

元旦の朝は6時の目覚めともに神様からのお告げを感じ、早速我が家のベランダから新年のご来光を待ちました。午前7時01分、東の空が黄金色に輝き始め素晴らしい日の出のライブショウが始まりました。

■ご来光は確か四度目・・・

私の記憶にある限り人生最初に見たご来光は、今を去ること30年前、加賀・白山の頂上。続いて富士山の五合目、そして娘夫婦、女房と四人で見た名古屋港の初日の出クルーズ、今年我が家の十二階のベランダで見るのが、ひー・ふー・みーと数えて四回目。それぞれ違う懐かしい思い出と感動があります。

■宵の鈴蘭南座へ

寒さに震えながら待った夜明けのご来光、一転して元旦の宵は、鈴蘭南座へ、そこで観たものは、芝居が好きで好きでたまらない南座さんの贔屓筋とまたまたお目出度い「寿式三番叟(さんばそう)」。

■三番叟(さんばそう)とは

目出度い時によく演じられる「三番叟」。もともとは、能、能狂言にある儀式舞踊を歌舞伎に取りいれ、江戸時代では歌舞伎の顔見世興行や正月興行などに「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」として上演されていたものです。 烏帽子を被り、滑稽味のある踊りを軽妙に踊る「三番叟」。この舞は、古くて格式のあるものでもあり、役者は舞台に立つ前には必ず身を清めてから演じたと云われています。

■エクステンション

「ご来光」と「三番叟」を元旦に見ることができ、今年は何だかとてもハッピーな年になる予感がいたします・・・エクステンション=発展、きっとそうなると確信します。

最後まで拙文をご覧頂き、誠にありがとうございました。

■P.S. 掲載の画像について

「ご来光」と「三番叟」の3カット。お目出度い画像をとくとご覧下さい。

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Goraikous2

Sannbsous

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2007年12月31日 (月)

師走の靖国神社に参拝して

既に一部の方に携帯メールで今回の参拝の感動をライブでお伝えしましたが、年の変わる前に改めてブログに書かさせていただきました。

■二回目の靖国参拝

師走のとある日、都内の大学で来年の企画の打ち合わせを済ませたあと、少し時間がありましたので東京駅へ戻る道すがら、九段下の靖国神社に立ち寄りました。私自身は、これで二度目の参拝。
今年一年無事過ごすことができたお礼と来たる年が、良き年であることを祈念し、お参りさせて頂きました。

■靖国時神社の由来は

ここで少し靖国神社について紐といてみます。
そのルーツを辿ると明治二年六月、明治天皇が、維新の際の「戊辰戦争」で亡くなった御霊(みたま)を祀るためために「招魂社」という名前で、九段に社(やしろ)ををお建てになった、その後明治十二年に今の「靖国神社」に名を改められとされています。以降「西南戦争」、「日清戦争」、「日露戦争」、「第一次世界大戦」、「満州事変」、「志那事変」そして「第二次世界大戦」に国のために亡くなられた246万余柱が祀られているという。

■靖国問題とは

事あるごとに取りざたされる「靖国問題」。右でもなく、左でもないリベラルを自称する私ですが、この雰囲気をまのあたりにするとさすがに「日本人」を感じさせられます。頭の中をよぎったのは戦時中にもてはやされた軍歌「九段の母」の一番の歌詞。

上野駅から九段まで
杖を頼りに 一日がかり
母は来ました 会いにきた

そして本居宣長が詠んだ名歌

敷島の やまとこころを 人問わば
朝日に匂う 山ざくら花

この歌に触発されて、拙歌をひとつ。

国のため 大和男の子の 心意気
果たして散らん(知覧) いざ行かめやも

■エピローグ

とてもデリケートな問題だけに、これ以上のコメントは差し控えていただきます。靖国神社の大鳥居をくぐり本殿に至るまで、これが明治天皇、大正天皇、昭和天皇、(今上陛下は皇太子時代に)そしてあの小泉首相が歩まれた参道だと思うと、胸にじぃ〜んとくるものがありました。参拝して、印象的だったのは、若い外国人の参拝者が多かったこと。中には中学生くらいと思しき十数名の集団が、先生に連れられ興味深そうに展示品と説明のディスプレイを見入っていたこと。
一体彼らは、何を感じ取っていたのか・・・興味深いところです。

最後まで拙文をご覧頂き、誠にありがとうございました。

■P.S. 掲載の画像について

「桜咲く本殿」、「トラトラトラ」の電文、「零式戦闘機」の3カットです。

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2007年6月 3日 (日)

今年も咲き始めた「ゼラニウム」

今年もこの季節になると、真っ赤な色のゼラニウムが、フラワーポットに咲き始めました。花や草木をこよなく愛した父は、狭い庭一杯にたくさんの花鉢を残していきました。あまりの数のため、近くの人にお分けするなどしましたが、そのうちのいくつかを我が家のフラワーポットに移し替えたました。父が亡くなって今年で5年、残念ながら大半を枯らしてしまいましたが、このゼラニウムだけは、とても生命力が強く、毎年元気に赤い花を咲かせます。近くによってみると「おい、また来たぞ」と親父の声が聞こえてくる気がします。
撮影:平成19年5月27日  7:30

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2007年5月22日 (火)

お江戸日本橋

  お江戸日本橋 七つ立ち
  初のぼり
  行列そろえて
  アレワイサノサ
  コチャ 高輪
  夜明けて 提灯けす
  コチャエ コチャエ

という歌を子供の頃からよく耳にしましたが、恥ずかしながら、この歳になるまで、出張や私用で東京へは何度も行く機会があるものの、「日本橋」を一度も渡ったことがありませんでした。ところが先日、ついにそのチャンスが到来しました。所用で「三越百貨店・本店」で商談をすることになったからです。東京駅を降り立ち、一路「日本橋」へ。歩くこと約10分ほどで、テレビや写真でよく見る「お江戸日本橋」が現れました。
ところで、この「七つ立ち」とは、一体何時頃なのか、興味が沸いてきまして、早速調べてみました。これは「暁の七つ」のことで、およそ午前4時頃、そして高輪で夜明けとありますから、つまり「明け六つ」の午前6時頃ではないかと推測されます。夜明けを迎えたから提灯を消す、昔の人はずいぶん早い時間に旅立ちをしたのですね。 
さて、橋の袂にある案内板によりますと、日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府をひらいた慶長八年(1603年)。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋と定めたそうです。爾来400年余、幾多の星霜をくぐり抜け、現在の橋は、石造2連アーチの道路橋として明治44年に架けられたものと記されていました。
日本橋渡ると、いよいよ目的の三越本店に到着。クラシックなルネサンス調の建物の正面にあるシンボルのライオン像をこの目で確認。このライオン像は、大正3年に三越が日本初の百貨店として、鉄筋5階建ての新店舗となった時、当時、支配人だった方の発想で、二頭のライオン像が設置されたのが始まりとか。そのモデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像だそうです。
三越さんでの商談を終え、今度は日本銀行・本店へ。今でも威風堂々とたたずむその姿は、竣工当時の明治の時代(1896年)では、国威発揚のシンボルでもあったことが推測されます。

ここで心配していたとおり、どんよりとした空からから、ぽつりぽつりと雨が降り出しました。もっとゆっくりと写真を撮りたかったのですが、次の予定もあり、仕事を兼ねた日本橋ミニツアーもこれでおしまい。
日銀併設の「貨幣記念館」訪問は、次回の楽しみとしました。  
撮影:平成19年5月17日  11:30

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2007年5月 6日 (日)

三河八橋の「かきつばた」

快晴の5月3日、知人と二人で三河八橋の無量寿寺にでかけてまいりました。名古屋から名鉄電車で約50分。途中、鳴海、知立と乗り継いで辿り着いたのが、三河八橋駅。実は私にとって、このあたりは、二つの懐かしい思い出があります。一つは、約30年ほど前になりますが、以前に勤めていた自動車販売会社にいた頃、営業研修で知立営業所に赴任となり、丁度このあたりを含めた知立市の南半分が、私の営業エリアだったから。当時の知立市近辺は、今ほど都市化が進んでおらず、のどかな田園地帯とトヨタ関連の工場が、ポツポツと点在する地方都市でした。約6ケ月ほどの研修期間でしたが、毎日のように農家を一軒、一軒廻ったり、会社訪問を繰り返す中で、この無量寿寺は、疲れた体と心をほっと癒してくれる貴重な場所でもありました。

もう一つの思いでは、父が存命中の頃、一緒にこのお寺に参拝に来たことです。残念ながら、その時の写真は残っておりませんが、私の心の印画紙には、今でもはっきりとその日のことが焼き付いています。生前、花をこよなく愛し、俳句も趣味の一つだった父にとっては、晩年親子二人で訪れた無量寿寺は、とても嬉しい思い出になっていたことと思います。

さて、三河八橋駅を後にして、自動車道路に沿って歩くこと約5分ほどで、無量寿寺に着きました。いつ来ても、そのたたずまいは、静かに私を迎えてくれました。事前に知立市の観光課の方から情報を得ていましたように、お目当ての「かきつばた」は、約三分咲きで、見頃は5月の10日頃とか。それでもそこかしこには、楚々とした「かきつばた」の群生も見ることができました。

閑話休題、無量寿寺は、歴史的にも由緒あるお寺です。創建は、慶雲元年(704年)。それ故に歴史に因んだ文化財も数多く、中でも有名なものは、在原業平にゆかりの「杜若姫の供養塔」や江戸時代の俳人・芭蕉が詠んだ一句、「かきつばた 我に発句の 思いあり」の句碑など多数あります。また業平や芭蕉を慕って、古くから文人や俳人達がこの地を訪れたとか。かきつばたの素晴らしさに加え、歴史的や文化的な側面からも興味が尽きない無量寿寺です。

花を愛でながら、一本の缶ビールそして、一服の抹茶のお手前をいただき、日頃の喧噪を忘れさせてくれる心豊かな一日を過ごすことが出来ました。 合掌              撮影:平成19年5月3日 11:00
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2007年4月20日 (金)

ランチウオークで見つけた「花水木」

今日のお昼は「スパゲティ」と決めこみ、日頃の運動不足の解消を兼ね、往復約1Kmのランチウオークを楽しんできました。そぞろ歩きの道すがら、ある庭先で手入れのいき届いた「花水木」を見つけました。今日のカメラはオリンパスのCAMEDIA.早速、数カットシャッターをきりました。閑話休題、書物によりますと「花水木」の原産地は北アメリカ、別名で「アメリカヤマボウシ(亜米利加山法師)」と呼ばれ、日本への渡来は意外と新しく、明治末期に東京市長だった尾崎行雄が、ワシントンに贈った桜の返礼として苗木が送られ、その苗木に“ハナミズキ”という和名をつけ、日比谷公園に植えたのが始まりだとか。花水木は、桜ほどの華やかさは、ありませんが、その姿と色合いは、なかなか上品な花です。ランチウオークのおかげで、ちょっぴり「リッチな気分」にしたることができました。撮影:平成19年4月20日 12:30

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2007年4月15日 (日)

遅ればせながら・・「さくらの花」

近くの公園で毎年咲く「さくらの花」です。今年は異常気象のせいで寒暖の差が不規則だったこともあり、4月の上旬まで花を楽しむことができました。花びらの色も例年に比べ、やや淡かったような気がします。
撮影:平成19年4月3日 12:30

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「桃の花」春の花シリーズ 第3弾

近くの庭先で手入れのいきとどいた桃の木を見つけました。一斉に開花したピンク色の花が見事です。桃は食用の果実の方が、親しまれている一方、奈良時代の頃から観賞用の花としても栽培されていたようです。万葉集の中でも、
「春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に 出でたつ少女(おとめ)」
「向つ峰に 立てる桃の木 ならめやと 人ぞささやく 汝が心ゆめ」など、桃を詠んだ歌も何首か見られます。また、桃は「桃源郷」など理想をイメージさせる言葉として古くから使われてきたようです。凡人の私にとっては、粋な花の観賞より、やはりフルーツの桃の方に興味があります。しっとりとした肌触りと、果汁したたる美味しい「水蜜桃」は最高ですね。
撮影:平成19年4月6日 12:30

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2007年4月 2日 (月)

ぼけの花も満開です。

近くにありながら、気づかなかった「ぼけの花」が満開となりました。紅白の花が入り乱れて、なんとも不思議なまだら模様。誰がつけたか「ぼけ(木瓜)」という名前からは、想像もできない上品な色合いの花として、咲き誇っています。辞書で調べると、ぼけは、バラ科に属する花で中国が原産地、日本に渡来したのは、平安の頃とか。お天気は、少々花曇りでしたが、カメラに収めました。
撮影:平成19年4月2日 12:30  
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2007年3月29日 (木)

こぶしの花が満開です。

『白樺 青空 南風 こぶし咲く・・・』という千昌夫の「北国の春」の歌詞で、よく知られている「こぶしの花」が、いま見ごろです。場所は愛知県尾張旭市にある植物園内の山すそ。柔らかな春の日差しをいっぱいうけて、澄んだ空の青色をバックにきらきらと輝く白い花びらをくゆらせていました。昔の人はこの花の開花時期から農作業の時期を判断したり、開花する花の向きから豊作になるか、否かを占ったりしていたようです。また、この花の名前の由来については、諸説ありますが、つぼみが開く直前の形が、子供の握りこぶしに似ているところから、この名前になったと云う説が、有力のようです。恥じらうような白い清楚な花に、心が洗われる思いがしました。 撮影:平成19年3月29日 12:30  兼好法師Kobushi2s_4
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2007年3月23日 (金)

樹齢三百年の枝垂れ桜です。

愛知県犬山市にある真宗大谷派「圓明寺」では、境内にある樹齢三百年の枝垂れ桜が、今年もお彼岸の時期にあわせるかのように、みごとな枝振りとなっていました。山門をくぐると樹齢約300年の古木が、目の前にあらわれ、その姿に圧倒されます。思わず携帯のカメラで1ショット。お寺にある案内によりますと、犬山市の城とお寺の関係は、防備上の要所として、寺院の位置づけが、大変重要だったとか。城郭と町屋などを含む、町全体を外堀で囲む「総構え」というまちづくりだったそうです。ともかくこの古木は、世の流れを三百年の間、静かに守ってきたことになります。4月の上旬頃まで、この枝垂れ桜を楽しむことができるとか。ぜひ、一度お出かけください。(画像をクリックしてください)Shidare

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2007年3月 6日 (火)

泣くな !一樹!

今日のニュースで、一樹のファーム行きを知りました。また、スポーツ各紙では、「中村の余波か」、「監督への不信感が募る」とか、面白おかしく書きたてています。ドラゴンズの選手会長として、いぶし銀的な存在感は、誰もが認めるところです。チームを一つにまとめあげることのできるのは、一樹をおいて他にはいないと思います。彼に伝えたいのは、ただ一言、「活字に迷わされるな」。確かにプロスポーツは、どれも戦う集団です。そこには私情や情実をはさむ余裕はどこにもない。しかし、一人のスーパースターより、チームの総合力が求められるプロ野球のような場合は、少し事情が違うと思います。上に立つ指揮官(落合監督)は、140試合の長丁場を考え、いろんなことを考えていると思う。今回の判断もその一つ。決して「井上一樹」という、一人の選手のみに的を絞った判断では無いはず。心の底で「一樹なら分かってくれる」という計算もあってのことでしょう。あなたが、鹿児島商工からピッチャーとしてドラゴンズに入団して以来、くさらずにずいぶん苦労をしましたね。みんなそのことは、よ〜く知っていますよ。今はまだオープン戦の段階、ここは大人の心を持って、若い人に実践の経験を多く積ませる、その位の度量を持って欲しいですね。一樹はドラゴンズにとって、必要不可欠の存在。ペナントレースが始まる頃には、きっとお呼びの声がかかります。そう信じて下さい。 兼好法師よりのエール。

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2007年3月 5日 (月)

大衆演劇の魅力!!

大衆演劇の魅力ですが、実は私もこの世界は、かけ出しで昨年の6月ころ、若い頃(約30年以上も前)、フォークソングを聞き行った名古屋・大曽根の鈴蘭南座の記憶が突然蘇ってからのことです。当時は高度成長期のさなか、テレビドラマなんかにおされて戦後の大衆娯楽を支えてきた映画とともに、大衆演劇は青息吐息の状態。当然、芝居小屋の経営も苦しく、芝居だけの公演では1ヶ月がもたず、当時アングラフォークと称していたシンガーソングライター達のミニコンサート会場として、その場を貸していたのです (高石友也など)。時をはるか経て約30年後、私の脳裏に突然記憶が蘇ったのです。「そうだ!大曽根に行こう」それがきっかけでした。大衆演劇は、「一度見れば、はまる」とよく云われます。また梅沢富美男に代表されるように華やかな世界のみが、マスコミでもてはやされていますが、あれはごく一部の断面。私が去年から見始め、全部で10ほどの劇団を見ていますが、それぞれの劇団のカラーこそ違え、「本当に芝居好きの劇団が公演」し、「芝居好きのお客さん」が観ている、それが大衆演劇の魅力を醸し出しているといっても過言ではないと思います。芝居の出し物は、と言えば、ご存知「股旅もの」はもちろんのこと、泉鏡花の「婦系図(湯島の白梅)」、歌舞伎の十八番「梅川忠兵衛」や「白浪五人男」など本格的なものも観ることができます。その内容といえば、新派や歌舞伎の「人気だけの役者」をはるかに凌ぐ演技力。しかも3時間たっぷりと楽しめて、入場料は千数百円ときています。芝居が終われば、役者さんが、入り口でお客さんを見送ってくれる「送り出し」というしきたり。そこでお客さんは「今日の芝居はよかった、また今度くるよ」と声をかけ、握手して帰る。まさに大満足の時を過ごしたことになります。 写真を撮れるというのも、私にとって大きな魅力の一つです。もちろん、いつでもいいというわけではなく、一定のマナーはありますが、とにかく生でみたお芝居を後で、じっくり写真で楽しむことができる。その写真にコメントを添えて、同じ劇団のファンの方同士と、メールで意見を交換しあうなど楽しみ方はどんどん広がって参ります。まだ、大衆演劇をご覧になったことの無い方は、ぜひお近くの芝居小屋に足を運んで見てください。きっとお芝居の虜になる(はまる)
ことは、間違いないと確信します。 兼好法師。  追伸:マイフォトに写真を掲載しましたのでどうぞご覧下さい。 

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